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2017年10月08日

●ギャロウェイと原子力

*以下に記すのは、私が参加している読書会(通称すがゼミ)で昨日取り上げられたアレクサンダー・R・ギャロウェイ『プロトコル—脱中心化以後のコントロールはいかに作動するか』(北野圭介訳、人文書院、2017年)についての私的メモです。レジュメと発表を担当された吉川浩満さんのお薦めで記録に残しておくことにしました。口頭での発言とほぼ同一の主旨ですが、言い足りなかった部分を補足してありますので、参加者の皆様にもご覧いただけましたら幸いです。

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2017年10月04日

●追悼のために

本サイトの前身である「退屈帝国」の同人だったDamin氏(以下Dと記す)が、先月、ALSという病で亡くなった。以下はそれについて書く。Dのプライバシーにある程度踏み込む内容になるが、彼の近親者が全員すでに亡くなっており、その思い出を記録に残すために許していただきたい(内容は記憶違い等も含めてすべて私個人の見解に基づく)。

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2017年09月15日

●「ユリイカ」に寄稿しました

「ユリイカ10月臨時増刊号 総特集・蓮實重彦」にエッセイ「新開(ブランク)と歴史 蓮實重彦における「社会」をめぐって」を寄稿しました。枚数の都合で詳しく触れられなかったのですが、氏の三つの小説が郊外、ホテル、多目的ホールという(良くも悪くも)20世紀の典型的な建築空間を舞台としていることは、第二帝政期以降という蓮實史観とどう関わってくるのかをいずれきちんと論じなくてはと思っています。なお、ここで映画のはなしを持ち出すと論旨の収まりがつかなくなるので断念したのですが、おそらくコールハースにおける「ロックフェラー・センター」は蓮實における「山中貞雄」に相当する、ということはやはり注にでも書けばもう少し意図が通じたかなあ、と拙論を読み返して思ったのでした。

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2017年07月13日

●「ユリイカ」「文藝」に寄稿しました

身すぎ世すぎでバタバタしていて(というかすっかり意気阻喪していて)つい告知をサボっていましたが、「ユリイカ」の8月臨時増刊号「総特集山田孝之」に「丑嶋馨と「ぼくらの」内閣総理大臣」というタイトルで映画・ドラマ版「闇金ウシジマくん」論を、「文藝」秋号の「特集176人による現代文学地図2000-2020」に「生政治時代の文学」というコラムを、それぞれ寄稿しました。お読みいただけたら幸いです。

2017年01月24日

●「津島佑子 土地の記憶、いのちの海」に寄稿しました

河出書房新社「道の手帖 津島佑子 土地の記憶、いのちの海」に論考「もう一つの「ウミ」-津島祐子と資本主義」を寄稿しました。

http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309025391/

2016年10月04日

●「病は気から」公演のお知らせ

個人的な事情の告知で恐れ入りますが、劇団俳優座の来年1月の公演「病は気から」で演出を私・石川の妻の髙岸未朝が担当いたします。

■劇団俳優座公演No.331「病いは気から」
(原作:モリエール、翻訳:秋山伸子)
公演日:2017年1月11日(水)~22日(日)
会場:俳優座劇場
出演:中野誠也、中吉卓郎、加藤佳男、島英臣、河内浩、田野聖子 ほか
演出:髙岸未朝
作曲:萩京子
 ※詳しくは劇団俳優座の特設サイトをご覧ください。
チケットは11月21日(月)よりチケットぴあ等で発売開始です。
[料金]一般:5,400円/学生:3,780円(全席指定、税込)

どうぞよろしくお願いいたします。

2016年07月08日

●10+1に寄稿しました

Webマガジン「10+1」に「祝祭とポルノグラフィー──磯崎新『偶有性操縦法』と蓮實重彥『伯爵夫人』をめぐって」というエッセイを寄稿しました。
建築系のメディアに書いたのは初めてなので、かなり緊張しました。ご覧いただけたら幸いです。

http://10plus1.jp/monthly/2016/06/pickup-01.php

2016年06月02日

●錯乱の日々2

本日の「日経新聞」夕刊最終面の書評欄「目利きが選ぶ3冊」で、陣野俊史さんに『錯乱の日本文学』を取り上げていただきました。ありがとうございます。

2016年04月30日

●「ユリイカ」に寄稿しました

今発売中の雑誌「ユリイカ」の石原慎太郎特集に「亡霊の言説」というエッセイを寄稿しました。

●『子午線』トークイベントのお知らせ

5月21日(土)15時より、紀伊國屋書店新宿本店8階イベントスペースにて、私が同人として参加している雑誌『子午線』のトークイベントを行うことになりました。
「「総力戦」の時代における文学・批評・政治」と銘うって、下記の通りに開催いたします。
日時:5月21日(土)15:00開演/14:45開場
会場:紀伊國屋書店新宿本店8階イベントスペース
登壇者:絓秀実×稲川方人×中島一夫×石川義正
会費:1000円
参加方法:5月1日(日)午前10時より紀伊國屋書店新宿本店店頭またはお電話にてご予約を受付いたします。
ご予約電話番号:03-3354-5702
※詳細は紀伊國屋書店イベント特集ページよりご確認ください。
https://www.kinokuniya.co.jp/c/store/Shinjuku-Main-Store/20160426100059.html
どうぞよろしくお願いいたします。

2016年04月08日

●錯乱の日々1

今週、拙著『錯乱の日本文学―建築/小説をめざして』(航思社)が刊行の運びとなりました。
下記のとおりすでにAmazonでは発売中ですが、ステータスは「通常2~4週間以内に発送します」のため、注文していただいてもまだしばらく届かない、という状況かもしれません。
お急ぎの方(?)は、大手書店にはたぶんすでに置いていただいているはずのですので、そちらでお求めいただけますと幸いです(今週末、私自身もいくつかの書店を回ってみます)。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

http://www.amazon.co.jp/dp/4906738176


今日は、Amazonには掲載されていない本書の「目次」を以下に紹介させていただきます。

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2016年02月11日

●イメージは無料ではない

昨日発売された「早稲田文学」に「連載「小説空間のモダニティ」単行本化記念」と銘打って「イメージは無料(ただ)ではない-「錯乱の日本文学」第0章」を掲載していただきました。
単行本は航思社より刊行の予定です。

2016年02月03日

●「ドストエフスキー」「子午線」

すでに先月になりますが、河出書房新社より刊行された「ドストエフスキー カラマーゾフの預言」に「『宙返り』のあとで」という大江健三郎の小説をめぐるエッセイを寄稿しています。
また、こちらも先日刊行されたばかりの「子午線 4号」(書肆 子午線)に「新国立競技場問題をめぐるふたつのフィクション―天皇制と市民社会」を寄稿しています。
ちょっと付言しておきたいことがありましたが、とりあえず告知のみ。

2015年10月03日

●「ユリイカ」に寄稿しました

「ユリイカ」に久々に書きました。10月号の特集・マンガ実写映画の世界に「大根仁と「映画的」残余」という論考を寄せています。

2015年03月04日

●「文藝別冊 谷崎潤一郎」に寄稿しました

発売中の「文藝別冊 谷崎潤一郎: 没後五十年、文学の奇蹟」に論考「谷崎潤一郎と言説の抗争」を寄稿しました。谷崎論の皮をかぶった金井美恵子論という、いささか趣のかわった原稿になっていると思います。
本誌には、渡部直己氏のインタビュー、丹生谷貴志氏のかなり長い論考などが掲載されており、それぞれ読み応えがあると思いますが、個人的には10年来の友人であり、優れた谷崎研究家である西野厚志氏が「谷崎潤一郎研究史」と「作品案内」を執筆しており、かれと同じ誌面に原稿を掲載することができたのが感慨深い出来事でした。
じつはこの原稿が現在の形で完成するまでには紆余曲折がいくつかあったのですが、西野氏には発表のきっかけをつくっていただいただけでなく、専門家の視点から有益なアドバイスをいくつもくださり、もしこの原稿が多少とも読むにたえるものになっているとしたら、それは西野さんのお陰です。あらためてお礼申し上げます。

2015年01月01日

●謹賀新年

大晦日まで仕事をして、今日元日はやっとお休み。
と思いきや、年末にサボっていたお風呂と部屋の大掃除に取りかからなければならないのだった。
ムムム・・・。

今年は単行本を出す予定なので、詳細が決まったあかつきにはココでご報告いたします。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

2014年11月01日

●「赤瀬川原平: 現代赤瀬川考」に寄稿しました。

全然更新していませんが、簡単なお知らせ。
「赤瀬川原平: 現代赤瀬川考 (文藝別冊/KAWADE夢ムック)」に「芸術・大逆・システム―尾辻克彦の小説をめぐって」を寄稿しました。

2014年07月01日

●のりたまハウスと高橋堅氏の建築

「のりたまハウス」が「新建築 住宅特集」7月号に掲載された。
この家の写真や実物を見た人は決まって「墓かトーチカのようだ」という感想を口にする。
それはもちろん間違ってはいない。
まもなく初老を迎える夫婦とその母親の住む家なのだから、どのみち死の匂いから逃れられないからだ。
雑誌の表紙となった吹き抜けの空間を初めて模型で示されたとき「私はここで死ぬだろう」と建築家に言った。
それはなかば真剣な戯言だった。
この写真の視線は横臥して上空を見上げている。
死につつある者の眼差し。
それが捉えているのは仮想的な生と死のあわいの曖昧な時空だ。
建築家が現象的な空間の通底性について語っているのは、私にとってはそういうことだ。

最近のリテラルに透明な、ほとんど露出症的な住宅にはいつもうんざりさせられる。
それはこれ見よがしに開放的なようでいて、じつは外界に対する攻撃性の発露なのだ。
高橋堅氏の建築空間はそれとは正反対のものだ。
かれの建築はしばしば内省的な光の住宅といわれる。
しかしそれは決して自閉的なのではない。それはこの家を外界に対して閉じているという意味で「トーチカ」という比喩をあてるなら、それは間違っている。
生をどのように外に向けて開いたらいいのか、人はもっと考えるべきなのだ。

たぶんこの家はいくぶんか時代にそぐわないものなのだろう。
それでも構わない、と個人的には思う。
ただ、ほとんど流行を後追いすることしかできない連中の、この優れた建築家への無感覚が私を苛立たせる。

2014年02月23日

●「早稲田文学7」に寄稿しました

「早稲田文学7」に「村上春樹の「システム」下」を寄稿しました。これで「小説空間のモダニティ」の連載はひとまず終了です。
最終回となる今回は「デザイン」という概念の今日的な展開について扱った内容となっていますが、アドルノ・ホルクハイマーの「啓蒙の弁証法」とはやや異なるかたちでの啓蒙と野蛮の不可分な関係について論じることができたのではないかと思っています。

2013年11月10日

●子午線に寄稿しました

春日洋一郎・長濱一眞・綿野恵太による同人誌「子午線」に文芸時評「銀河鉄道の労働者」を寄稿しました。
今号は絓秀実氏の120枚の論考「小林秀雄とマルクス主義」、そして大杉重男氏、安里ミゲル氏のインタビュー、栗原洋一氏、杉本徹氏の詩など充実した内容になっています。

以下の書店で絶賛取り扱い中!

<東京>

紀伊國屋書店 新宿本店

紀伊國屋書店 新宿南店

丸善     丸の内店

ジュンク堂  池袋店

三省堂    神保町本店

ジュンク堂  吉祥寺店

リブロ    池袋店

リブロ    渋谷店

青山ブックセンター本店

あゆみブックス早稲田店

三省堂    法政大学売店

蔦谷     代官山店

東京堂書店 (神保町)

増田書店   (国立)

タロー書房  (三越前駅)

サニーボーイブックス(学芸大前)

古書ますく堂  (西池袋)

<大阪>

MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店

ジュンク堂大阪本店

清風堂

スタンダードブックストア

<京都>

ジュンク堂 京都店

ジュンク堂 京都朝日会館店

<名古屋>

丸善 名古屋栄店

ちくさ正文館

<北海道>

北海道大学生協クラーク店

<新潟>

ジュンク堂 新潟店

<富山>

Booksなかだ 本店

<熊本>

長崎書店

<沖縄>

ジュンク堂 那覇店

(紀伊國屋書店新宿本店、新宿南店、丸善丸の内店、ジュンク堂池袋店、三省堂神保町本店以外の書店に搬入されるのは週明けにズレこむかもしれません。)

2013年09月10日

●「早稲田文学」に寄稿しました

むちゃくちゃご無沙汰していますが、現在発売中の「早稲田文学」に「村上春樹の「システム」上」を寄稿しています。
村上春樹とともに、伊東豊雄、柄谷行人について論じています。

ところでこの2年ちかく諸事情によりほとんど書き込みできませんでしたが、この秋ようやく身辺が落ち着きそうです。
というわけで、近々また。

2013年02月17日

●『子午線 原理・形態・批評』vol.1に寄稿しました

ボクの若い友人たちが立ち上げた同人誌『子午線 原理・形態・批評』vol.1に「絓秀実の「家」」という論考を寄稿しました。
ボクの原稿はともかく、松本潤一郎氏のロング・インタビューや古賀忠昭氏の遺稿拾遺(解題・稲川方人氏)や同人たちの批評や詩など、なかなか充実した内容になっているようです。
下記HPで直接注文できるほか、いくつかの書店でも購入可能とのこと。
詳しくはHPをご覧ください。

http://shigosen2011.web.fc2.com/

2013年01月12日

●新しい年になっていた…

年末から始まった慣れないお仕事にかまけてすっかり更新を忘れていた…。
気がつくと早くも1月中旬でしたが、いちおう謹賀新年です。
でも、これからもしばらくは忙しくて、飲みにもいけない。
ここもとりあえず年度が替わるまで放置するしかないかも…。

2012年09月06日

●『早稲田文学』に寄稿しました

明日発売(予定)の『早稲田文学5号』に「大江健三郎のふたつの「塔」―[連載]小説空間のモダニティ(3)」を寄稿しました。
(Amazonの「内容説明」には名前のっていませんが、たぶん掲載されていると思いますw)

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2012年08月27日

●「ユリイカ・特集 岩井俊二」に寄稿しました。

「ユリイカ」9月号に「アイドルという空虚 『undo』と一九九〇年代」というエッセイを寄稿しました。

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2012年06月14日

●住宅哲学9 「明るい部屋」

いよいよ基本設計が完了。当初想像していたよりも、ずっと幸福な明るい光の溢れた家になりそうです。ぼくらの幾多の無茶なお願いを平然と聞き入れて、さらに良い家にしてくれたKさんに感謝多謝深謝!

しか~し!! すでにスケジュールは押せおせなので、すぐに本格的に実施設計に入ることになる。住宅の細部を詰めていくうえで、Kさんおよび事務所の皆さんにはこれからもさらにご苦労をおかけすることになるけど、どうかよろしくお願いします。

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2012年06月04日

●住宅哲学8 「親密さ」としての住宅 

わすれもしない、市の外れの、
小さく静かな、私たちの家。
石膏のポモナの像と、古いヴィーナスは、
貧弱な木叢に裸の手足をかくし、
夕べには、光りかがやく壮麗な太陽が、
光の束の砕け散るガラス窓ごし、
物珍し顔の空に見ひらかれた大きな目玉さながら、
私たちのゆっくりと食べている夕食を、眺めているかのようだった、
質素な食卓布や、サージのカーテンの上に、
大蠟燭さながらの美しい反映をいっぱいに撒きひろげて。
(ボードレール『悪の華』、無題、阿部良雄訳)

光の満ちたこの美しい白い家は、もちろん19世紀なかばフランスの民家(詩人じしんの思い出)をモデルにしているはずだが、しかしぼくにとってはもはや20世紀モダニズムの住宅に感じられる美と郷愁をあらわしているようにも思われる。
太陽はいうまでもなくもはや失われた「父性」の象徴なのだろう。
そして「質素な食卓布や、サージのカーテン」はJ・フォードの映画の「エプロン」(蓮實重彦)のようなありとあらゆる受容性としての「白」であって、そこには登場人物は誰ひとり存在していないにもかかわらず、言葉の真の意味での「幸福」な家族の肖像が確固として現前しているのだ。
しかも興味深いのは「石膏のポモナの像と、古いヴィーナス」の隠された「裸の手足」で、それはある意味でそうしたブルジョワ的な家庭から排除された「性」そのものであり、詩人はそのことからもけっして目をそらしてはいない。
だからこそ、この詩は「およそありとあらゆる限りの最も美しい詩のひとつ」(イヴ・ボヌフォワ)たりえているのだ。

ここでミースの「バルセロナ・パヴィリオン」を思い起こすのは唐突にすぎるだろうか?
この建築物が「光の束の砕け散るガラス」の神殿であることは今更語るまでもないだろうが、しかしそこにもまたゲオルグ・コルベの「朝」と題された古典主義的な女性像が佇んでいるからだ。
「バルセロナ・パヴィリオンの光のなかに立ちつくしつづけるコルベの彫像《朝》は、ミースの建築という「独身者の機械」がその空間内に抱え込んだ身体=女性の痕跡である」(田中純)。
痕跡は不在の徴なのではなく、あくまでも「隠されてある」にすぎない。モダニズム的=男性的な論理にとっては「汚れ」でしかないが、しかしその建築物を統御する主体の視線の暗点として避けることのできない「染み」のようなものである。
それはフロイト的な意味での不気味さ=親密さにほかならない。
ボードレールやミースの美に虚偽がないのは、Das Unheimlicheを「不在」として隠蔽しようとせず、むしろ詩的論理の矛盾を矛盾として露呈させているからなのである。

2012年04月26日

●のりたま日録5

このところサボっているが、基本設計ミーティングは毎週続いている。だんだんプランの精度が高くなって、Kさんとセンチ単位でプランニングをああだこうだと進めているのである。
雑談の中で、建築家が模型をどう扱うか、という話をうかがう。Kさんも妹島和代も青木淳もみんなそれぞれに方法論が異なるという話が興味深い。あと、青森県立美術館のこととか、金沢21世紀美術館とキルヒナー美術館の関係とか。

2012年04月06日

●のりたま日録4

昨夜、Kさん事務所で4回目の基本設計ミーティング。
いよいよ正式に「設計監理委託契約書」を取り交わす。少ない予算と限られた時間の中、僕らの無理な希望を涼しい顔で次々と叶えてくださるKさんと所員の皆さんには感謝の言葉もない。
改めてよろしくお願いいたします。

そして今朝、ほぼ固まりつつあるイメージをもとに、同居することになる母親にもプランの説明をする。おおむね納得してもらったが、変更部分も出てきそう。またまたKさんに相談しなくちゃである。

2012年04月03日

●住宅哲学7 「例外状態」としての基本設計

施主が建築家と取り結ぶ関係というのはどういったものだろうか。
建築家とは建築の専門家だが、専門家というのはそれぞれの専門的な言語体系を身につけた者という意味であろう。
弁護士なら法という言語体系を、医者なら医学という言語体系を共有するように、建築家は広義の建築言語を共有する専門家集団の一員である。
彼らは(顧客であり素人である)僕らの行為や意思を専門的な言語体系に置換する。
弁護士ならばそれを法言語に「翻訳」(代行=表象)するし、医者は我々の身体の症候を医学言語として「解釈」する。
しかし建築家がおもに行う仕事は、それらともどこか異なっているように思われる。

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2012年03月29日

●のりたま日録3

昨夜、Kさん事務所で3回目の基本設計ミーティング。
前回提示されたスタディを手掛かりに、自分たちの希望をあれこれ聞いていただく。
個々の場面場面のイメージがだんだん具体的になってくるとともに、住宅全体の主題も明瞭になってくる。
「巨大なスクリーンに対面する劇場のような住居」だ(スペクタクル!)。
ただその場合、やはり「階段」をどうレイアウトするかが最大の課題になってくるかもしれない。

2012年03月22日

●のりたま日録2

昨夜、Kさん事務所で2回目の基本設計ミーティング。
建物の輪郭がはっきりしてくるとともに、生活の輪郭も徐々に想像が膨らんでくる。
ここを会社の事務所にして、あそこを書庫にして、じゃあ自分の原稿は1階のこのテーブルで書こうかなあとか。その時家族はここにいるのなあ、とか。
つうか、問題は夫婦それぞれの職場を住宅に押しこめてしまったから、荷物の量がハンパないのだ。
収納どうする? というのが最大の悩みとなりそう。

2012年03月19日

●住宅哲学6 制作物としての住宅

前回「住宅」は「建築」でも「インフラ」でもない、と書いた。住宅は「小説」と同じく、近代に誕生した「雑」=多声的な生産物なのだ。にもかかわらず、それは他の作品/製品に比較して特異ななにかである。
今回は視点を変えて、制作物としての住宅について考えてみよう。

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2012年03月14日

●住宅哲学5 なぜ「住宅」で「哲学」なのか?

ところで、なぜ「住宅」で、なぜ「哲学」なのだろうか。

という問いの前に念のため断わっておくが、この文章は「建築哲学」ではない。
建築に関する哲学とは建築の本質への問いであって、そうしたことは建築家や建築界――建築する人たち――が考えるべきことだし、実際考えているのだろう。

だったら「住宅哲学」とは住宅の本質について考えることで、それは住宅に住む人――つまり僕自身――が考えなくてはならない、と思うのである。たとえば毎朝何を食べるのか(あるいは食べないのか)を考えるのが、当人の「健康哲学」であるのと同じように。
じゃあ住人にとって住宅の本質って何なんだ?

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2012年03月12日

●住宅哲学4 集合住宅は建築か

 中沢新一・伊東豊雄「建築の大転換」(筑摩書房)を読んだ。中沢についてはここで何度か論じたので触れない。伊東は中沢をブレーンにしているようだが、伊東が依拠するこの種の「反近代主義」の胡乱さは、その主張が都市にそのまま適用可能かどうか考えてみるとわかる。

おそらく伊東は、現在東北で試みているような建築を、彼自身の生活する東京やバルセロナに適用してみようとは考えないだろう。

「近代主義に基づく都市の均質空間は、経済性もあるし、高層化も容易ですし、人間の世界にさまざまな恩恵を与えてくれました。そのこと自体を否定するつもりはありません。しかし、一方で、近代主義的均質化によって人間がかなりスポイルされているという事実が間違いなく存在していて、「そうではない方向の建築もあり得る」という思いをずっと抱いていました。東北という、共同体=社会が息づいている地域での復興計画に携わりながら、私はあらためて近代主義に基づく建築から大転換して、本来建築家のとるべき姿勢で、社会とかかわる建築に取り組んでいくのだという思いを新たにしています。」(「建築の大転換」)

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2012年03月01日

●住宅哲学3 「スペクタクル」としての住宅/ローン

 今日、Kさんの事務所で(仮称)「のりたまハウス」の基本プランについて初の打ち合わせをした。その前から妙にフワフワと落ち着かない気分だったのだが、あとから考えると「家を建てる」という思いつきがついに現実となってしまう、という事実を前に、どうも気後れしていたにちがいない。人生最大の散財というか消費活動であって、これがつまり「スペクタクル」というやつなのか? というか、要するに素人で気が弱い、というだけなのだけど。
 しかもKさんにプランの方向性を提示してもらうと、これがどうもカッコよくなりそうである。Kさんがついに降臨した建築の神さんから授かった閃きに、独特の光=空間を加えたコンテンポラリーな労作である。何かもっともらしい質問もした気もするが、じつは「こんなカッコよい家に住んでいいのか」と、やはり内心ビビリっぱなしなのだった。井の頭五郎に家具を注文しよ~かな~、などと言いながら帰宅。次回の打ち合わせが楽しみ。

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2012年02月26日

●住宅哲学2 街路のような、動物園のような家

 「標準世帯」のようではない家、というのはどのようなものなのだろうか。たぶん、それはいわゆるnLDKモデルに適合するものではないはずだ。前にも書いたように、LDKというのは「核家族」を基準にした、L(リビング)・D(ダイニング)を中心に夫婦の寝室および子供(1~2名)の個室nが置かれるスタイルだ。LDKは家族が共有する場であると同時に接客スペースでもある。LDKモデルは仕事の時空間を外部に放り出すことで成立する。それはたとえば亭主がサラリーマンで昼間は会社に通勤する、というような不在の時間帯に家族の行動が同期している、ということである。簡単に言えば、オッサンが平日の昼間から家の中でブラブラしているようでは困るのだ。しかし僕らが必要としているのは、夫婦の部屋と母親(朝の早い老人)の部屋、そして夫婦それぞれの仕事部屋ということで、LDは必ずしも求めていない。しかも僕らは昼夜を問わず家で働いている場合も多いし、妻はピアノを弾いたりオーディオで大きな音を聞くことが仕事の一部であったりするのだ。昼間から家族三人それぞれが非同期的に家の中をウロウロしているのである。

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2012年02月24日

●のりたま日録1

最近のTVのお気に入りは「孤独のグルメ」。松重豊が一人商売の苦さと不安をうっすらと漂わせた「軽い重さ」とでもいったものを漂わせて、とてもいい。実際、昼ごろに妙に時間が空いてしまったときの行き場のなさを食欲で満たそうというのは、ボクにも覚えがあるのだ。

Project Japanをざっと読んだ。ポイントはやはり菊竹清訓の「自分の建築は旧地主階級からのプロテストだ」という驚くべき発言だろう。
それが事実なのかどうか(菊竹の今日の視点からの合理化なのか)は別にして、要するにメタボリズム(1960年)が建築界の小さな「保守合同」のようなものであった、ということだ。
菊竹のいう右派的旧勢力からアメリカ帰りの民主主義的エリート(槇文彦)、さらにアイロニカルな同伴者(磯崎新)まで巻き込んだ、この種の政治的「野合」を可能にしたのがメタボリズム=「成長」神話である。
今日、メタボリズムの復権を唱える人々の意図がどのへんにあるのか、そのあたりから想像してみるべきだろう。
(もっとも、「野合」というのは実際にはちょっといいすぎで、要するに彼らがまだ学生に毛の生えた程度のキャリアしかない若者で、将来の方向性など海のものとも山のものとも知らなかった、というのが実態なのだろうけど)

さて、明日は建築家Kさんのオープンハウスに伺う予定。画家の個展に行ったことはあるが、建築家の内覧会というのは初めて。わくわく。晴れるといいな。

2012年02月17日

●住宅哲学1 家を建てるということ

最近、暇にまかせてRem Koolhaasの新刊Project Japanをぱらぱらと読んでるんだけど、これはメタボリズムについてのインタビュー集でありながら、日本について基本的な知識のない読者のために簡潔に近代史を説明してくれて、ボクのような者にもなかなか勉強になる。
で、その内容と直接関係があるというわけではないんだけど、これから時々この退屈ブログで「住宅哲学」と題して(「衣裳哲学」のもじり)、住宅や建築にかんするあれこれを徒然なるままに書き散らかしていきたいと思う。
なぜそんなことを書くのかというお話は、まあ、おいおい触れていくことにして。

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2012年01月27日

●「映画芸術」に寄稿しました

1月30日発売の「映画芸術」438号に安井豊作著「シネ砦炎上す」(以文社)の書評を寄稿しました。
ちなみにこの号は恒例の「ベストテンワーストテン」が掲載される号で期待されている方も多いと思いますが、目次を見ると(ボクの原稿はともかく)いつにもまして気合いの入った内容みたいでボクも楽しみにしています。

2012年01月20日

●山本理顕・他「地域社会圏主義」(INAX出版)

やっと仕事が一息ついたけど、正月からこっち、憂鬱な日々が続いています。
しばらく引き籠りです。

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2012年01月07日

●謹賀新年

正月からユーロ安やらイラン情勢やらがきな臭い2012ですが、なるべくなら今年で世界が終わらないでほしい、と本気で祈念するお正月です。

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2011年12月05日

●ジジェクによる『こうもり』/『こうもり』によるジジェク

あまりに忙しくてここを更新する暇もありません。
特にネタもないので、昨年夏に「ユリシーズ」という雑誌に掲載したコラムを転載します。
去年までは、リーマンショックから一息ついてまだしも「幕間」という気配を漂わせていた世界情勢ですが、EUがとうとう地獄の釜を開いてしまいそうな来年は果たしてどうなるのでしょうか。
ちょっと気が早いですが、この先どうなるかわからないので、ひとまずよいお年を、と皆様に申し上げておきます。

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2011年11月01日

●「ゲルランゲ」の結末

人生の曲がり角で、日々、足踏み状態が続いています。
こんなとき、ツイッターなんか見てると、歴史はどんどん更新され、あらゆる人々からあらゆる瞬間に画期的な思考が生まれ、出版されるあらゆる本がどれも傑作ぞろいで、自分だけどんどん時代に置いていかれる気がしてくるから不思議だ。
しかしその一方で地震が起きようと放射能まみれの生活だろうと、この世界の停滞感はまるでかわらないのだから、まさかそんなはずはないと思うのだけれど・・・。

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2011年10月11日

●秋

八束はじめ「ハイパー・デン・シティ―東京メタボリズム2」を読む。約半世紀後の未来へむけたプロジェクトでありながら、八束のテキストには強いニヒリズムが漂っている。
善悪の彼岸にあるコールハースの「ビッグネス」がニーチェ的だとしたら、八束の「悪の都市計画」はさながらドストエフスキーの「大審問官」である。
とはいえ、「密度」と「コンパクト」には原子力が不可欠なのか、不要なのか、結局なにひとつ触れていないのはやはり奇妙だと思う。

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2011年10月02日

●「家の外の都市の中の家」

今日でオペラ・シティのこの展示が終了するので、あわてて見にいってきたのだ。

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2011年09月20日

●メタボリズム展という「政治」

日曜に「メタボリズムの未来都市展」@森美術館のシンポジウムを見てきた。文字どおりメタボリの当事者たちとレム・コールハースを目に収めたいだけだったので、休憩中に導師のごとき風体の磯崎新が相変わらずダンディな槇文彦に挨拶するシーンを横目で眺めてきただけでボクとしては充分満足だったのだ。
ただ、とりわけシンポ第2部「メタボリズムという政治Metabolisum as politics」は看過できない内容だったので、ちょっとだけ覚書と感想を記しておく。

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2011年09月13日

●「早稲田文学 4号」に寄稿しました

なんだか公私ともどもむやみと忙殺されて、こちらの更新をサボっておりますが、「早稲田文学 4号」に「中原昌也の「熱気球」―小説空間のモダニティ2」という論考を寄稿しました。
Amazon等で発売中です。

2011年08月11日

●リトル・ピープルの「時代」?

韓国戦、日本代表は強かったけど、韓国はなんだか八百長問題で揺れる韓国サッカー界の今後が人ごとながら心配になるような生気のなさだった。
そういえばトルシエ時代にオリンピック代表がアウエイで韓国をボコって、それが遠因となってヒディンクが呼ばれたと記憶しているけど、今回はどうなるんだろ。
もし韓国協会に力があれば、アルゼンチンあたりから有名監督をひっぱってこよう、なんで考えるんじゃないだろうか。
チソンが引退して難しい時期ということもあるので、このまま韓国が弱体化するとは考えられないけどね。

閑話休題。
最近、オウムの地下鉄サリン事件について思い出すことが多いのだけど、それはきっと東日本大震災をきっかけに文学者たちが堰を切ったように語り始めたことと無縁ではないのだろう。
つまり3.11は長らく続いたオウムの呪縛を解いたと思えるのだ。(中沢新一をはじめとして)文学者たちの多くは今回の震災と原発事故に関してはおおむね胸を張って「無罪」といえるからである(ちなみに90年代初頭に原発広報に関わる仕事をした経験があるボクには、そう簡単に無実とはいえません)。
むろん「無罪」というのは、そうした言説を文学としてどう評価すべきか、というのとはまったく別の問題である。
いっぽうオウムというのは――当時の記憶を同時代的に抱いている者にとっては――自分自身がそれになんらかのかたちで「加担」したのではないか、という不安や後ろめたさを拭いきれない対象だったはずだが、しかしその場合の「加担」とは何だったのか。

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2011年07月14日

●社会学者としての石川義正

「そしおろじったー」
http://shindanmaker.com/112425
によると

石川義正は「理論破綻した上野千鶴子みたいな社会学者」です。主著は『知識の知識社会学』(2011)になるでしょう.

とな。
知識の知識社会学、気にいったぞ! 破綻しとるな~w

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2011年05月27日

●「ユリイカ」に寄稿しました

『ユリイカ2011年6月号』(特集*山下敦弘『マイ・バック・ページ』 の〈青春〉)に論考「幽霊はここにいる 『天然コケッコー』 とある幻想の帰結」を寄稿しました。

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2011年05月25日

●原子力文化

1990年代(まだオウムや神戸の地震が起きる前だったが)2年間ほど「原子力文化」という広報誌の制作に関わっていたことがある。
(ちなみに原子力業界では「広報」をPR=Public RelationsではなくPA=Public Acceptanceというのである。つまり消費者の嗜好に訴えるのではなく公衆の「受入」が前提なのだ)

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2011年05月22日

●建築家の思想?

普段からあまり雑誌は見ない方なのだけど、この時期に発行される雑誌は震災の影響がはっきり見られてなかなか面白い。

その中で「思想」5月号の建築特集は、原稿執筆の時期はほとんど3.11以前でそれぞれに後記のような文章が付記されていて、この震災が建築業界に与えた影響があからさまに読み取れる。

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2011年05月17日

●正義と国家

震災のどさくさにまぎれて(?)大阪府知事が「国歌の際に教師の起立義務化」とか言い出しているらしい。
以前からこの男にはあまり関心がなくて「きっと史上最年少の総理の座でも狙っているのだろうなあ」「そんでもって自分の前に国民をギレン・ザビのように跪かせたいのだろうなあ」くらしいにか想像していなかったのだけど、もちろんそうした野心の実現のための世論の喚起には長けているらしく、この問題も現場から反発が強まれば強まるほどその思う壺なんだろう。

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2011年05月14日

●ジャンクガレッジ

東京駅のラーメンストリートで昼飯を食べました。
六厘舎が本命だったのですが、行列の長さに断念。
代わりに連れが食べたいというジャンクガレッジ(六厘舎の姉妹店らしい)の特製まぜそばを食したのでした。
これは。。。
うまいことはうまいのですが、もはやラーメンの領域を完全に逸脱してるなあ。。。
少ない汁の不気味な灰色といい、トッピングの山盛りのマヨやベビースターを大量の極太麺にぐちゃぐちゃと混ぜると、もはや見た目は現生人類の食事とは思えない様相に変貌していく。
なんというか「ブレードランナー」とか「攻殻機動隊SAC」みたいな世界観の食物。。。
2011年5月、初めて食事で21世紀を実感した瞬間でした。
(おかげで1食で1.5キロ太った)

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2011年05月09日

●歴史の狡知

浜岡原発の一時停止に対する推進派(およびそれを後押しするメディア各社)の反発は奇妙なものだ。それが(不幸なことに)原発への反対運動へのガス抜きになるだろう、ということは容易に想像できるからだ。
客観的にみて(菅政権にはとりあえずなんでも反対しておく、という一部の勢力にとって以外には)浜岡の停止という判断はごく合理的な判断であるように思える(6月のIAEAの査察を待つべきという考え方もあるが大差はないだろう)。
しかも浜岡以外の原発には手をつけない、という言質を現政権から取り付けたことで、推進派にとってもおそらく一定の成果を得たともいえるのだ。これを落としどころとして、むしろ推進派は勢いを取りもどすのかも知れない。
年度内に何らかのかたちで「終息宣言」が出されることで、残念ながら原発問題は完全に過去のものとされるのではないだろうか。

(以下は完全な空想というか妄想)

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2011年04月28日

●「映画芸術」に寄稿しました

「映画芸術」2011年05月号に平倉圭「ゴダール的方法」(インスクリプト刊)の書評を寄稿しました。4月30日発売の予定だそうです。

2011年04月15日

●思弁としての危機

4月9日に岡崎乾二郎、松浦寿夫、小林康夫の三氏による座談会(主催・四谷アートステュディウム)を聞いてきた。テーマはもちろん今回の震災について。

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2011年03月31日

●「天罰」

建築家の石山修武が自身のブログ(3/29)で石原慎太郎の「天罰」発言を肯定していた。正確に引用する。

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2011年02月15日

●「ソーシャル・ネットワーク」

やっと仕事がひと段落したので、映画もサッカーも見れてうれしいんだけど、今週はいきなりアーセナルvsバルサだ。
バルサに勝てる見込みは皆無、とは言わないけど、20%もないだろうなぁ。
というか、万が一アーセナルがバルサに勝ちでもしようものなら、世界中のサッカーファンに恨まれる気がする・・・。
まあ、今年はカップ戦のタイトルが獲れればそれでよしとしよう。

(公開して1月あまりでいまさらネタバレもないけど)

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2011年01月30日

●アジアカップ優勝おめ!

見事、の一言でした。
本田△がインタビューで過去3度の優勝以上の価値がある、という意味の事を言っていたと思うけど、気持ちはわからないでもない。
92年の日本開催の初優勝はともかく、レバノン2000であの「勝つことが難しい」と言われた中東の大会で勝った時以上に今回は完全アウエーだったし、幸運の女神の力がたぶんに後押してくれたような2004中国のときよりも自力で困難(ジャッジの不運)を突破したという印象が強い。
しかもいまさら言うまでもなくザッケローニは神采配だったし、チームとしての団結力はTVからも感じられるほどだった。
ただ、そういう内発的な理由とともに、日本代表がいいサッカーするには、やはりきちんと整備されたピッチと適温適湿の気候が不可欠なのかなという気もする。
また、スケジュール面でもほぼ中3日でできたうえに、サウジアラビアの不調もあってグループリーグ3戦目を実質的に流すことができて、それが今大会はかなり有利に働いてくれたと思う。
その意味で優勝を狙える条件が整っていたとはいえるかもしれない。
ともあれ、やっほ〜い!!
次はコパ・アメリカで南米を驚かしてほしいよね。

2011年01月18日

●アジアカップ vsサウジアラビア

サウジがあまりに注文どおりにハマってくれたので特に言うこともないのだが、あえて言えばMFのセンターに、無理すれば使えるホンダでなく、香川や遠藤をスライドさせるのでもなく、藤本でもなく柏木を置いたのがバランス重視を公言するザッケローニらしい部分なのだろう。
「バランス」という言葉は、日本ではしばしば「守備的」の言い換え(言い訳)のように使われる気がするけど、どうやらこの監督は戦術的・戦略的に「バランス」と言っているらしい。本格派である。
ということは今後、意図してバランスを崩すという選択も当然ザッケローニの視野に入ってくるはずだけど、それが次のカタール戦なのか、それともアジア・レベルではこのまま行けるのか、という視点でこの代表は楽しんでいけるかもしれない。

2011年01月14日

●アジアカップ vsシリア

久々にサッカーを観て明け方4時まで夜更かししてしまった。眠い・・・。
予想どおりアジアの泥沼(というのは中東での大会にふさわしくない比喩だけど)でもがきつつ前進するザッケローニ・ジャパン。
ヨルダン戦では「どん引き」戦法に苦しめられ、今回はイラン人のジャッジにやられた。
川島のPKで、日本のプレーヤーは「この審判ヤバイ」と思い、シリアは「この審判味方だ」という観念を与えられてしまった。
そのせいで日本はPKエリア内外では相手に厳しく詰められずボールを拾われ、シリアはあからさまにジャッジに頼るようになってしまう。
だから、逆?にシリアにPKとレッドが与えられたことで、シリアは「裏切られた」と感じてあれほど激昂していたのだろう。
結局、単に典型的なアジアのヘタなジャッジにすぎなかったんだけど。

さてさて、サウジ戦はどうなるんだろ?
案外、サウジはのびのびとプレーして日本が圧倒される、という展開もあるんじゃないだろうか。
楽しみである。

2011年01月03日

●謹賀新年

仕事切迫中につき、とりあえずご挨拶のみ(泣)
ボクの正月は旧正月あたりだ・・・

2010年12月27日

●「ゴダール・ソシアリスム」

2010年はわれながら例年になく忙しい年で、しかも生活習慣が一変してしまったせいで、このサイトの手入れも含めいろんなことが疎かになってしまった。特に8月以降、仕事に直接関係のない読書ができたのはたったの2冊という惨憺たるありさまだ(ラウリーとベルンハルトだ)。
来年はもうちょっと余裕のある生活をしたいと思うけど、なんだか今年以上に非常事態な感じなのだ。大晦日も元日も仕事て・・・。
ではまあ、とりあえず良いお年を。

(以下、ゴダール映画にネタバレもくそもないか。まだ初見なので、とりあえず感想というか単なる覚書として)

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2010年12月13日

●「ユリイカ 1月臨時増刊号 総特集・村上春樹」

「ユリイカ 1月臨時増刊号 総特集・村上春樹」に「壁を通り抜けること――転機としての「アフターダーク」」というエッセイを寄稿しました。

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2010年10月13日

●ザッケローニの緒戦

仕事が忙しくて、アルゼンチン戦、韓国戦とも半分くらいしか見れなかったけど、面白かった。代表でモダンサッカーがこれほど素直に実現するとは思わなかったので、監督の手腕には当然ながら今後に期待してます。
もっとも、もしかしたら対戦相手の条件が日本にいいように嵌った面もあるかもしれないけど。完全格上のアルゼンチンと、ライバル国のアウエイという、或る意味で戦い方に意思統一を育みやすかったからね。
今後、アジアでの様々な気候風土、戦い方の中でザッケローニがどんな腕を振るうのか、かれの真価はそこで見るべきなんだろう。
とりあえず今年の代表は、ホント面白かったなぁ~。こんなに浮沈の大きかった年ってあったかしらん。

2010年10月05日

●長らくご無沙汰してしまいました。

この夏はなんやかやと忙しかったのを口実に、ずいぶん長いこと更新をサボってしまった。
しかもまだまだ忙しい・・・、たぶん年内いっぱい忙しくて見たい映画にすらいけないので、ここに書くネタがないのだ。

以下、暇文字をつらつら・・・。

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2010年08月24日

●『ユリシーズ』No. 4に寄稿しました

シンコーミュージック・エンタテイメントから8月25日発行の『ユリシーズ』という雑誌に「ジジェクによる『こうもり』/『こうもり』によるジジェク」というコラムを寄稿しました。
6月に来日したカウンターテノール歌手・ヨッヘン・コヴァルスキーとスラヴォイ・ジジェクの新刊『大義を忘れるな』等に触れています。

以下余談。

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2010年08月10日

●夏季休暇のお知らせ

月野さんが夏コミの準備で頑張っている最中ですが、石川はひと足早く気楽な夏季休暇のお知らせです。
石川は8月16日(月)から23日(月)まで海外を旅行することになりました。
ご用の方はなるべく15日(日)までにご連絡いただけたら幸いです。
休暇中もお送りいただいたメールは確認できるはずですが、お返事は24日(火)以降になってしまいそうですので、ご了承ください。

では、皆さまも楽しい夏休みを!

2010年07月09日

●南アフリカWC決勝

オランダvsスペイン、何だか収まりがいいような悪いような…。
オランダといえば2年前の欧州選手権のグループリーグでの衝撃的な攻撃サッカーと決勝トーナメントでのガッカリぶりが印象的だったけど、短距離選手がいきなり2000m突っ走ろうとして失速リタイヤしてしまうナイーヴっぷりから、今回は最終コーナーまで8割パワーで調整してきた感じがする。
スペインはスペインで、欧州チャンピオンという自信を得たことが不調ながら際どい勝ち負けを制してきた理由なのだろう。
そういう意味ではこの2チームがファイナリストになったのは至極合理的なんだと思うけど、その潜勢力がまさかブラジルを超えるとは正直考えもせなんだったのだ。
ボクの予想は、32年ぶり3度目の王手のオランダ、という予感。
まあ、今大会はおおむね予想を外しているので、現実にはスペインかなぁ…。

ところで実写版の「もやしもん」、これ面白いのかしらん…。CGが一番キャラ立ってるというのはこれいかに。しばらく見てみるけど。

2010年07月05日

●ブラジルのいないベスト4は淋しい

淋しい…。

2010年07月02日

●ブラジルの優勝ほどつねに面白くない事はない

友人のIくんから久々にメールをもらった。件名に「ブラジルの優勝ほど面白くない事はない」とある。
彼は20年前からのドイツファンなので当然であるが、しかしこれについてはボクも同感。強いブラジルはなぜこうも面白くないんだろう?
もちろんIくんは20年前のマラドーナ・アルゼンチンvs(西)ドイツの再戦を喜んでいたが、しかし今回のドイツはたぶんこの20年間で一番魅力的なチームじゃないだろうか。
なんとなくオランダもスペインもブラジルの敵じゃない気がするし、どうもこの先はメッシとポドルスキーに頼るしかないんじゃないか。
ちなみにボクの優勝予想は当初からブラジル1本です(笑)
つうか、このエントリーは完全にIくんへの返信だよな。

2010年06月29日

●パラグアイ戦

16強になって(例の誤審連発を除けば)波乱もPK戦もなく、どうも順当である。
そろそろ今夜あたり波乱のPK戦がくるんじゃないか、パラグアイとPK戦なら世界中の誰にも責められないし、とちょっとなんだか「もしかして?」の予感。
実際、スコアレスドローの後のPK戦というのが日本がいちばんあり目な勝ち方な気がする。
さてさて。

2010年06月25日

●南アフリカに向けて最敬礼

デンマーク戦は月野定規さんの新居で友人たちと一緒に一喜一憂、いや七喜三憂くらいの盛り上がりで観戦しました(ちなみに今日の文体は代表に敬意をこめて?デス・マス調)。
結局、トルシエ時代から10年ちかく言われ続けてきた「個の力」が勝負を決したことになりました。ジャブラニ球を開発したアディダスはいずれ本田にボーナスを支払わなければなりません。
そしてこの最高の結果を導いた岡田監督の「俊輔OUT・本田IN」という大きな決断は、元をたどればやはり12年前の「カズOUT」の失敗を、こういう形で反復しつつ取り返した、ということになるのでしょう。脱帽です。
ただし個人的には、名波以降Jリーグ最高の日本人MFでありながら、つねにナカタや小野といった海外で活躍するプレーヤーの陰に隠れがちだったガチャピンこと遠藤が、その才能にふさわしい勲章をようやく手にしたことがほんとうに嬉しいです。いつもの人をおちょっくたようなキックやパス、大笑いしながら痺れさせてもらいました。

いずれにせよ、本田の1トップが機能すれば勝ち(カメルーン戦、デンマーク戦)、機能しなければ負ける(オランダ戦)という、ある意味で「スターシステム」という「野球脳」を引きずっている日本人好みのチームによって「世界の壁」というやつを打ち破ったわけです。
昨日も書いたとおり、たぶんこのチーム編成が今後の代表の強化の方向性になるのでしょう。善し悪しは別にして、それが日本サッカーの「リアリズム」ということになるのかもしれません。

2010年06月24日

●決戦12時間前

なので、なんだか仕事が手につかないのだ。仕方がないので、珍しく真面目なサッカー試論を書いてみる。

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2010年06月23日

●北野武「アウトレイジ」

デンマーク戦前日、ここに至ってもはやいうべきことはなにもない。日本サッカー史上最大のチャンスが目の前に転がっている。弱小国ながら、実質二人しかいないセンターバックが3試合そのまま使えるなんて僥倖はそうそうあるものではないのだ。こうなればあとはもう据え膳をいただくだけである。
もちろん勝ったら勝ったで、協会が「オカちゃんに監督続投要請」なんて余計なことをしでかしたせいで(ほんとに余計なことしか言わない会長だね!)素直に喜べない気もするのだが、おそらくこの2年半で自らのサッカーのコーチとしての限界をいやというほど味わったであろう岡田監督がその要請を素直に受けるとも思えず、また岡田監督がその程度の冷静な自己認識力はまだ保持していることはこの1カ月間の迷走で証明されたとも思うので、もはや後顧の憂いなく代表には頑張ってほしいものである。

(以下ネタばれかなりあり)

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2010年06月15日

●デンマーク戦に向けて

いまさらここで言うまでもなく、カメルーン戦はほんとうにいい闘いだった(ゲームとしての質はともかくとして、だけど)。
こーゆー潜在能力もふくめてすべて出し切った感は、フランスW杯出場を決めたイラン戦、あるいはむしろアトランタ五輪出場を決めた95年のサウジ戦を思い出せるほどだった(ちなみにあのときはナカタがFWもやっていた)。

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2010年05月31日

●ご無沙汰しておりました

今年から生活パターンが変わってなかなか落ち着かなかったのですが、ようやく今週から新生活のめどが立って、ここにもカキコミを再開したいと思います。
まあ、話題といったら昨日のイングランドとのテストマッチなんですけどね。
プレスやファンにもおおむね肯定的に捉えられているようで、ボクもまずまず悪くないと思ったのだけど、ホンネをいうと「こういう方向性――深めにコンパクトに守って、カウンターとセットプレーで得点を狙うという――へ1年前、半年前から進んでいればなあ」と。
まだ半年あれば、ああいう戦い方の精度と強度を上げられただろうし、OGの2失点にも対応できていかたもしれない。おそらく本番でも結局「惜しいなあ」の連続、要するにドイツでの二の舞ということに終わるのではないかしらん。
岡田監督は「ベスト4」とか血迷ったことを口にしてしまった時点で他のW杯出場国とのレベルの差をきちんと認識できていなかったのは明白だし、それはかれの経験不足、日本人コーチが海外での経験を持っていないという致命的な弱点が露呈してしまった。
やはり日本人に代表を任せるのは当分無理、というかもう少しマトモなコーチをつけていたら、グループリーグでも十分に戦えたのに、プレーヤーは可哀想だなぁ、という思いでいっぱいです。
ともあれ、アウエイでのW杯初の1勝を目指して頑張ってほしいものだよね。

あ、最近携帯メールを変更したので、「送っても返事がない」という知人の皆さま、ここを見たら左記プロフィール欄のメールまでご連絡ください。
お手数ですが何卒よろしくお願い申し上げます。
以上、業務連絡でした。


2010年04月26日

●「ユリイカ」に寄稿しました

『ユリイカ 2010年5月号』の「特集*ポン・ジュノ」に「犬とステレオタイプ 自己植民地化する時代の映画をめぐって」を寄稿しました。本日発売だそうです。

2010年03月30日

●個人的な出来事

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2010年03月18日

●歴史は繰り返す?

たしかに2002日韓共催までの日本サッカーは「坂の上の雲」っぽかったけど、あの当時が日露戦争だったとすれば、2006ドイツの予選までは第一次大戦くらいで、本大会のオーストラリア戦以降が満州事変、南アの今年が第二次大戦なんてことになるんだろうか。
下記の記事を読む限り、協会の無謀さと無能さはさながら軍部(岡田監督)の暴走を追認するだけの近衛内閣のごとくである。
であるならば、きっと本田は第1戦のvsカメルーンでは「ゼロ戦」とあだ名され、デンマーク戦がミッドウェーで、オランダ戦が沖縄や広島の悲劇で敗戦を迎え、その後ホンダの名前は「カミカゼ」とか「回天」とかのような伝説と刻まれることになるんだろうか、なんちて・・・。

W杯4強想定で176億円 サッカー協会の10年度予算
 日本サッカー協会は18日、東京都内で理事会を開き、2010年度の予算案と事業計画を承認した。6月開幕のワールドカップ(W杯)南アフリカ大会での4強入りを想定し、一般会計収入は約176億2300万円で、前年度比約14億3千万円増となった。(中略)W杯1次リーグで敗退した場合は約17億円の収入減となる見通しだが、相応の支出減が見込まれる。日本協会の田中道博事務局長は「(日本代表の)岡田監督がW杯ベスト4の目標を掲げている以上、それを前提にするのは当然」と話した。
[ 共同通信 2010年3月18日 21:22 ]

2010年03月08日

●鈴木成文氏逝去

3月7日、鈴木成文氏が亡くなったとのこと。ボクは氏と面識もなく、ただ単に氏の自伝的な著作である「51C白書」の読者であったにすぎないが、ただし小島信夫論の原型となるアイデアが浮かんだのはこの著書を読んだからだった。その意味で氏にあらためて深く感謝するとともに、ご冥福をお祈りしたいと思う。

続きを読む "鈴木成文氏逝去"
2010年02月14日

●「インビクタス 負けざる者たち」

編集者のKくんに「「neo2(にょにょ)」の2って、キョンキョンみたいで80年代的ですね」と言われた。そうさど~せおいらたちは80年代に青春を過ごした時代遅れの人間さ。
あとライターのYさんに「もっとプロフィール欄を充実すべし」とアドバイスされた。もっともである。
今年あたりそろそろHPをちょっと改装してもいいのかな。

(ネタばれあり注意)

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2010年01月29日

●「映画芸術」に寄稿しました

「映画芸術」第430号に行定勲監督の新作「パレード」のレビューを書きました。1月30日頃に発売とのこと。

2010年01月26日

●「早稲田文学」に寄稿しました

最近あまりに忙しくてココに全然カキコミができませんが、雑誌「早稲田文学」3号に「大岡昇平の「東京タワー」」という論考を寄稿しました。これは連載評論「小説空間のモダニティ」の第1回となります。
2月3日発売予定とのこと。

2010年01月01日

●あけましておめでとうございます。

年末年始くらいたまには仕事と関係のない読書を、と思って、フランソワ・ドス「ドゥルーズとガタリ 交差的評伝」(河出書房新社)と千田善「オシムの伝言」(みすず書房)を読んでいる。
ドスの本は、ガタリについてほとんど無知な私には大変勉強になるし、ちょっと意外な情報(アニエス.bが若いころガタリのもとでデビューしたとか)も面白かった。
オシム師の本は、たぶんこれでもう自分がサッカー本を買うのは最後になるんだろうな。と、そのくらいサッカーから関心が離れている(その割にはwowowとスカパーは加入してるけど)ので、今では代表監督が岡田氏でヨカッタ、くらいに思っている。
ジーコのときほど積極的に「負けてしまえ!」と腹の奥で感じてしまうわけでもなく、かといってオシムだったら不安と心配のあまり6月まで仕事も手につかないところだった。
今年はただでさえ仕事のやり方もプライベートも激変する予定なので、それじゃ生活が破綻してしまう。
案外、岡田氏は予選リーグ突破くらいの結果をだしちゃうかもしれないし、やたらとサッカーへの世間の風当たりの厳しい中、今回はそうなればいいとわりと真剣に願っています。

もろもろの事情でここでの私のカキコミも減るかもしれませんが、これまで同様適当に更新していきますので、気の向いたときにたまには来てみてください。
本年も「退屈帝国neo2」をよろしくお願いいたします。

2009年12月01日

●「イングロリアス・バスターズ」

NHK「チャイナ・パワー」という番組で中国映画が特集されていた。要するに映画の中心地がハリウッドから北京に移りつつあるというのだが、しかしそれは事実なのか?
映画というメディアが強力なイデオロギー発信装置であることはもはや常識に属すると思うが、現在の中国映画に「カネと物量」以外のメッセージを海外に発信する力があるとは到底信じられない。少なくともインタビューに登場していた中国映画界の中心人物たちにはそうした観点は一切存在しないようだし、むしろある種のイデオロギー的な背景から可能なかぎり逃避している(検閲?)ようにさえ見える。
つまり、中国映画の現在の興隆は持続的な影響力を保持するものではなく、単なるバブルの産物以外の何ものでもないということだ。だとすれば、それが中国国内および彼らの民族的紐帯を超えて(かつてのハリウッドやモスフィルムのような)世界的影響を及ぼすということはないだろう。ボクらがハリウッド映画の「普遍的」イデオロギー(というのは語義矛盾だけど)にあれほど魅惑されたようにはならないはずだ。もっとも国内市場が桁違いに大きすぎるので、このバブルはあと数十年続くのかもしれないけど。

(以下ネタバレあり注意報)

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2009年11月22日

●ふたたび

風邪がぶり返す。というかボクは飲みに行くと風邪をもらってくるみたい。基本的な体力が落ちているのかもしれない。

微熱でぼ~っとしながら「千のプラトー」をパラパラと捲っていて--これはボクが無知なのか、どこか読み落としているのかもしれないが--その最後の章「1440年-平滑と条理」の、この1440年とはいったい何を指すのか、自分が知らないことに気づいたのだった。
ネットで調べると1440年はグーテンベルクの活版印刷発明の年とされる(1445年ともいわれる)。そうなのかもしれないけど、しかしアルベルティが「絵画論」を発表したのが1435年で、そこで遠近法について初めて論じているのもこのテキストと深い関わりがあるはずである。本当は1440年とは何を意味しているのだろうか。もしご存じの方があればご教示ください。

2009年10月12日

●「リミッツ・オブ・コントロール」

二日酔いを治すためには、8時間以上熟睡して翌日の朝食と昼食を抜いてさらに1時間以上半身浴をするのが一番良いことに最近気がついたのだけど、今日はお風呂につかりながら「気狂いピエロ」のベルモンドの真似をしてエリー・フォール「美術史」を読んでいた。
そこにあったティントレットに関する記述をそのままゴダールに捧げたくなったので、以下引用。

「ティントレットは反転したミケランジェロだ。彼はミケランジェロを見た、そして彼のようになりたいと欲したにちがいない。《ティッツィアーノの彩色とミケランジェロの素描》と彼は言った。しかしそのどちらにもならなかった。彼は決して完全に自分を支配することができなかったが、我々を驚かすのはその絶えざる敗北であり、それはミケランジェロにおいて我々を魅了するのがその絶えざる勝利であるのとおなじことである。彼はティントレットだったのであり、それだけで十分なのだ。それは非常に偉大な何かであり、そのため我々はその作品の入口で躊躇し、そのなかに入るのを恐れて、それを空疎で粗雑なものと見なしてしまう。彼は美術の奇跡のひとつであり、むき出しの裸の力のようなこの上なく優雅な何ものか、そして着飾ろうとする力のような俗悪な何ものかであり、ヴァザーリが言うように、《絵画がかつて見たことのない最も凄まじい頭脳》であり、獣的英雄である」(森田義之・小林もり子訳)

(以下、最近はネタバレもなく平気で映画を論じるようになってしまった)

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2009年10月10日

●『ユリイカ 2009年10月臨時増刊号』に寄稿しました

同誌の「総特集*ペ・ドゥナ『空気人形』を生きて」に論考「偶像(アイドル)の縫合線」を寄稿しました。1979年10月11日生まれのペ・ドゥナさんと、じつは意外かもしれない同年10月30日生まれの仲間由紀恵さんとの「対比(アイドル)列伝」です。
むかし月野さんの同人誌に山田奈緒子嬢の似顔絵を寄稿して以来のトリオタ全開の原稿となってしまった・・・。

昨日、たまたまNHKでイッセ-尾形の一人芝居を10年ぶりくらいに見た。コントという舞台で独創的なスタイルを発明し、かつそれを数十年続けることの困難について考える。最近の中崎タツヤのマンガにも感じるんだけど、ネタの切れよりも過度に様式化された演出が強調されているような気がする。個人的には笑いよりも、もっとひしひしとした辛さを感じてしまうのだった。

2009年09月15日

●「クリーン」

「中止の鹿島―川崎戦、残り16分から再開へ」
・・・大雨の影響で中断後に中止となったJ1第25節鹿島―川崎戦(12日、カシマスタジアム)の扱いについて、中断前の状態(鹿島1―3川崎)で、残り約16分間の試合を10月7日にカシマスタジアムで行うことを決めた。[読売新聞:2009/09/15 19:28]

何はともあれ、Jリーグがまともな判断を下してヨカッタ。
にしても、これはおそらく未だかつて見たこともないようなハイ・クオリティで壮絶な16分間になる可能性が高い。
優勝を争う2チームの体力充分のプレーヤーが16分間、全力でゴールに突進する。サイドバックは全速力でサイドを上下し、フィールドプレーヤー全員がオールコートプレスをかけあう。はっきりいってどんなゲーム展開になるのか、川崎にとって2点のリードがどの程度のアドバンテージになるか、まったくわからない。
サッカーファン必見! つうかスカパー放送するのか? さすがにこの16分間のためにカシマには行けないゾ。

あ、あとマラドーナ監督はW杯を盛り上げるために辞任してください。
・・・と思っている人は世界中に10数億人はいるんだろうな。

(以下、ネタばれあまりなし)

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2009年08月22日

●海外ドラマ

これまでで指折りのダメ夏でした。先月までは見たいTVもなかったのに、今月はひたすら毎日5時間以上レンタルDVDを眺める日々。

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2009年07月29日

●「新世紀エヴァンゲリヲン・破」

本業が忙しいときはやたらとTVを見たくなるのだけど、今クールのドラマでは「猿ロック」くらいしか食指が伸びるのがない。芦名星は「鹿」よりヤンキーくずれのほうがハマってる。ちなみに月野さんは「官僚たちの夏」だそうです(キャストがオトコくさすぎてボクは見逃してました)。
BSのネイチャー系ドキュメンタリーも再放送ばっかりだし、放送大学も夏休みモードだし、で、結局ラーメンズのDVDを流しっぱなしにする毎日。
なにか適度に面白くて、仕事の邪魔にならない番組ってないかなぁ。

(特にネタバレないと思います)

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2009年06月22日

●『述3』に寄稿しました

近畿大学国際人文科学研究所紀要vol5『述3』(明石書店刊)にジル・ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)の書評「映画の分類学と(複数の)映画史」を寄稿しました。6月下旬には全国主要書店で購入可とのこと。

今日はサッカーの大きなネタが二つ、コンフェデでのイタリアグループリーグ敗退と中村俊輔エスパニョール入りがあった。イタリアはチャンピオンズリーグでの結果も含めて、完全にトップレベルから滑り落ちた感じがする。この国のサッカーは、例の買春疑惑の大統領(ミランのオーナーさまでもあられる)からマフィア、人種差別問題等を含む社会全体の体質を改善しないと、もう当分ダメかもしれない。
いっぽう中村俊輔は、個人的にはマリノスでやってほしかったなぁ(フロントが契約交渉の土壇場でヘタうったらしい)。もし来シーズンのリーガの放映がWOWOWだとしたら、バルサと、そして反時代的なまでにバブリーなレアル!より中村優先のプログラムになるんじゃなかろうか。それはちょっと困るよねぇ・・・>月野さん

2009年06月09日

●「夏時間の庭」

代表の南アW杯一番乗り、とりあえずオメデタウ。個人的には中村憲剛がゲームの主役を張るようになったのが、好きなプレーヤーだっただけに特に嬉しい。
でも来年、このサッカーでほんとに南アフリカで戦えるのか? といったら話は別だろう。つうか、来年のシステムとスタメンがまったく想像できない。まさか本番で俊輔を中盤でプラプラさせておけるほど余裕のある試合運びになるわけもなく。なにより中沢の年齢(による衰え)は致命傷になるかもしれない。

ところでこの晩の「シャンデリアハウス」ののっちは、トヨタカップでオフサイドをくらったときのプラティニのマネを(訳もわからず)させられていた。このタイミングを狙っていたに違いないここの番組スタッフ、なんてサカオタの鏡なんだ! 座布団1枚!

(以下ネタバレあり)

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2009年06月02日

●「インスタント沼」

更新をしばらくサボっている合間に、ネドベドが引退し、マルディーニが引退してしまった。サッキ以降の「モダン・フットボール」という一つの時代の終焉である。そういや「モダン」という形容詞を肯定的に使えるのもサッカーが最後だったが、今後ははたしてどうなるのか? 今シーズンのバルセロナは、クライフのスタイルをさらにソリッドにしたような強烈な印象だった(もしかしてロマーリオ時代より強いかも?)。つまりこれが「アフター・モダン」、(サッキ以降標準化された全員守備)+(メッシ;マラドーナやジダンなみのキープ力をもったスーパーなアタッカー)=21世紀のサッカーの始まり、と思っていいんだろうか。

TVドラマはついに「湯けむりスナイパー」のみ。これを観ると毎回「ああ、Oくんならコレ好きそうだなぁ~」と思うのだが、そういえば彼は最近とんと音沙汰がない。元気でやっているのかな?

(以下ネタバレあり)

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2009年04月25日

●バカの森

「ユリイカ」5月号の「特集クリント・イーストウッド」に寄稿しました。「奴隷の闘い『スカイ・クロラ』vs『スペースカウボーイ』」という原稿です。バカっぽい副題ですが押井守とイーストウッドについて論じています。

(以下まったく何の関係もなく…)

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2009年04月23日

●日本の「世界史」的使命と「理性の狡知」

ある特定の国家(あるいは民族)の興隆と没落が「世界史」を左右する重要な因子となりうる、と仮定してみたらどうだろうか。そうした国家(あるいは民族)を、たとえば紀元前5世紀頃のギリシャや16世紀のスペイン、17世紀のオランダ、ハプスブルグ朝オーストリアについて考えると、20世紀の日本もそこに加えることができるだろうか。
じっさい、関ヶ原の戦いと同じ年(1600年)にイギリスの東インド会社が成立し、昭和天皇の死去と同じ年(1989年)にベルリンの壁が崩壊したという偶然(?)は、そうした想像を充分に刺激するに足る。端的にいって日本が国民=国家として形成された17世紀から20世紀にいたる400年間(つまりヨーロッパが一時的に--というのはフランク『リオリエント』の示唆だが--アジアに対する政治的・経済的・軍事的なヘゲモニーを握った期間)、日本は欧州列強の圧力に対する「アジアの最後の砦」だったのかもしれないのである。その世界史的意義の頂点となるのが日露戦争(日本海海戦)だったということになるだろう。何しろそれはトルコの人々にまでいまだに語り継がれるほど偉大な勝利だったのだ。しかし1997年の香港返還以降、中国が数世紀ぶりにアジアの盟主としての実力と自信を回復しつつあることで、「アジアの徳俵」たる日本(地理的に見てそんな感じ?)の使命は終焉を迎えた、というのがここでの見取り図である。

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2009年03月28日

●3月

ひさびさに、というかはじめてまともに岡田ジャパンを(TVで)見る。時ならぬメディアの野球推しに、サッカーファンととしてさすがに危機感は感じるものの、ここで負けたらそれはそれで面白い、という一抹のイヤミな下心もあった。で、結局俊輔のFK一発で勝利という結果。
とはいえ、このサッカーでセットプレー以外で得点力を上げるには、ブラジル人のFWが一人か二人必要でしょうね。優等生のサッカー、といいたいところだが、優等生というのは全科目平均点以上でかつ1~2科目傑出しているものなので、すべてが70~80点というのは凡庸以外の何者でもないのである。どんだけ続けても人気でないだろうナー、これじゃ。

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2009年03月01日

●「チェンジリング」

(以下ネタばれあり、かなぁ・・・)

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2009年02月01日

●「我が至上の愛 アストレとセラドン」

今クールのTVドラマで見てるのは「ヴォイス」と「銭ゲバ」と「ありふれた奇跡」。その上「相棒」と「只野係長」があるんだ。TV見過ぎだ・・・。
「銭ゲバ」はちょっと面白かった。主人公の顔に付けられたスティグマは、あれは単なる「差別」の表象ではない。あの傷にしろ「ゼニ」へのこだわりにしろ、フェティシュというよりは機会原因的であり、彼はリアリストというよりアイロニストである。「カネのためならなんでもするズラ」とか言いながら、風太郎は「カネ」が「無」でしかないことを知っている。彼の復讐は「無に根こそぎにされ」(ツェラン)たことへの怒りに他ならないが、もちろん彼の復讐が達成されたのちに得られるのは、これまた「無」にすぎない。これは最初から仮象(=無)でしかないロマン主義的自己(シニシズム)の至る最終的な帰結である。だからこの主人公は、最近ニュースでよく見る自己処罰的な犯罪者たちとどこか似ているという印象を受けるのだろう。

(ボクの中では、ロメールは「木と市長と文化会館」で完結してしまった--EUの理念を体現していた--気がするので、その後のロメールの映画はよく知らず、したがって下記の印象は見当外れかもしれない。ネタばれというほどのものも特になし。ネットを検索していたら、「映画ライター」を名のる人間に「キワモノ」呼ばわりされていた。しかし映画の評価云々とまったく別の水準で、ロメールという監督に払うべき敬意というのは存在するのである)

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2009年01月23日

●『ユリイカ2月号』に寄稿しました

「特集*日本語は亡びるのか?」に「ギリシャ語が亡びるとき」というエッセイを寄稿しました。
先日の「東京新聞」の「大波小波」に「(水村美苗『日本語が亡びるとき』の)説に特に反論の余地はない」とあったけど、「おいおいホントーかよ?」となんだか慇懃無礼な感じで反論しています。

ボクが『日本語が亡びるとき』を読んだ第一印象は、これはきっと今の高橋源一郎氏なら喜んで取り上げそうな著作だ、というものでした(実際に高橋氏がどう評価しているかはよく知りませんが)。
でも彼の(特に80年代の)小説はまさに水村氏が批判している当の対象であって、その意味で『日本語が・・・』は、それを読む者自身の「現在」を映すリトマス試験紙のような本かもしれません。

2009年01月20日

●「セザンヌ主義」@横浜美術館

vsイエメン戦があるのをすっかり忘れていて、TVをつけたらすでに1点先制してた。まあそんなもんでしょ。
それより、「東京新聞」朝刊の「こちら特報部」は最近なかなか鋭い企画が多くて読ませるけど、今日はJリーグ秋冬開催への動向を特集していた。正直、代表戦よりこちらの方が日本サッカー界にとって重大な問題だったりする。現会長は小泉元首相を模倣したような大向こうを狙ったパフォーマンスが多すぎるんだけど、この問題でも「郵政民営化」のそれに似た、ポイントを単純化して課題を隠蔽する例のやり口はかなり気にくわない。秋冬開催は東北・北海道のサッカーを見捨てることと事実上同義だが、実際にそうなってからでは取り返しが付かないのは「格差社会」問題と同じだろう。

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2009年01月11日

●今年もよろしくお願いします

遅ればせながら「あけおめ」です。
大晦日も元旦も本業が忙しくて、本も読まず映画を観るヒマもなく過ごしていました。
おかげで腰のヘルニアが再発しそうな徴候が・・・。
経験者にはご理解いただけると思いますが、あれをやると足の爪切りも自分でできなくなる(激痛で足腰が曲がらない)という悲惨な日常が1年くらい続くのです。
てなわけで、健康第一を今年の祈願としておきます(初詣も行ってませんけど)。

2008年12月17日

●『早稲田文学2』に寄稿しました

「小島信夫の「家」--nLDK・透明性・近代末期」という約100枚の論考。「レイトモダン」を「近代末期」という日本語にしたところがミソです(建築用語ではなく、ピーター・ブラウンの邦訳「古代末期」のマネ)。
無名の筆者によるこんなに長い評論を掲載してくださった編集部に深謝。

内容としては、先日創刊された『悍』(白順社)に発表した「『地の果て 至上の時』 あるいは「路地」の残りの者たち」の姉妹編に当たります(ただし執筆時期は小島論が先なので「姉」にあたるのかな)。
どちらも自分自身ではかなりアクチュアルな論点を呈示したつもりです。特に『地の果て』論ではリーマン破綻を意識していました(あのニュースが飛び込んできた日、世界じゅうの金融屋が「嘘だ」って絶句したでしょ)。
でも、あんまりそうとは読まれないらしい。もしくは、それと文学にどんな関係があるの? と不思議な顔をされてしまいます・・・。

今後はもっと若い作家たちについても書きたいと思っていますが、とりあえず現時点で言えるのは「キャラクターズは小島信夫の破片ではあっても、中上健次の破片ではない」といったところかな。中上健次はドゥルーズと並んで「民衆が存在しない」という言葉を引用する権利のある唯一の日本の作家だったし、今なおそうなのである・・・って、やっぱ孤立してるのか、オレ? でも、まあいいや。

2008年11月27日

●世界はコントである

「飼い犬殺した厚生省」実は筋違いだった…小泉容疑者「えっ」
(11月27日3時5分配信 読売新聞)
 捜査関係者によると、小泉容疑者は22日夜に東京・霞が関の警視庁に出頭した直後から、「自分の犬を殺したのは、保健所であり厚生省。自分は犬の敵(かたき)を討つために生きてきた」などという供述を繰り返している。
 出頭翌日の23日に山口県柳井市の実家に届いた手紙の中でも、「1974年4月に保健所にチロが殺された。その敵を討った」などとつづり、犬の処分の日付や曜日も書き込んでいた。
 こうした小泉容疑者の主張について、取調官が「あなたの言っていることは筋違いではないか」と指摘すると、それまで「官僚は悪い」などと冗舌に話していた小泉容疑者は「えっ」と驚いた様子で、言葉に詰まったという
 実際、ペットの処分を規定する動物愛護法を所管するのは環境省で、保健所を設置しているのは、都道府県や政令市などの地方自治体。厚生労働省(旧厚生省)は狂犬病予防法を所管するだけで、犬や猫の処分は保健所の判断に委ねられている。

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2008年11月23日

●「ハッピーフライト」

アーセナル、壊滅・・・。20歳そこそこのメンバーで固めた弱みがついに一挙に噴出してしまった感じ。調子に乗っている時はイケイケなんだけど、怪我人が多発しチームのリズムが狂うともう調整できる人材がいない。こういう時にこそ経験と人望のあるベテランが必要なのだが、今回はキャプテンが率先してコワれちゃったものなぁ。20代前半の才能ある青年たちが「オレがオレが」になるのは仕方がないけど、そいつらのアタマを押さえられる人間力(!)のあるタイプが今のチームに皆無なのである。これはベンゲルのチーム設計の深刻な失敗というしかない。なんとか今シーズンも4位以内を確保してほしいものだけど・・・。

(以下ネタバレあり)

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2008年10月29日

●「トウキョウソナタ」その他

【事務連絡:10月31日から11月3日まで旅に出ています。その間メールでご連絡を頂いた方には3日以降にお返事いたしますのでご了承ください。】

最近はサッカー自体よりも、サッカーを取り巻いている環境のほうについ興味が向かってしまう。もしシーズン中に優勝争いにからんでいるチームが倒産したら、勝ち点計算はどうなるのだろう? とか、2010年はほんとうに南アフリカで開催できるのだろうか? とか。
実際、日本協会は先日「日本のスタジアムは現在の開催規定を満たしていないから代替開催は無理」と早々と発表していたが、よく考えるとこれはアヤシイ。これはむしろ「規定を変更しさえすれば、開催の準備は内々に進めておきますよ」というFIFAに対する暗黙のメッセージのように聞こえないだろうか。
ただでさえ遅れている南アのスタジアム建設が、この状況下でホントにどうにかなるとはやっぱり思えないのだし、となると、二度続けてUEFA領域でW杯を開催することはFIFAの政治力学上ありえず、南米も経済・治安上の問題が大きい。つまり現在の規模の大会を代替開催ができそうなのは日本かアメリカしかない。すでに電通内部じゃその場合の予算やスケジュールを内密に検討しはじめていたりなんかして。まあ、それ以前に日本代表がアジア予選でしくじったら大笑いですが。

ところで、某サッカーサイトを読んでいたら「マラドーナ、アルゼンチン代表監督就任へ!」というニュースを読んで、ジュースを吹き出しそうになった。とうとうやっちまったなアルゼンチン!!

(以下ネタばれあり)

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2008年10月17日

●新創刊誌『悍』に寄稿しました

『悍』という雑誌に「『地の果て 至上の時』 あるいは「路地」の残りの者たち」という論考を寄稿しました。
すでに書店やアマゾン等にて購入可能のようです。

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2008年10月16日

●「アキレスと亀」

今、リアル世界は「エヴァ」に喩えると(!)どのあたりなんだろうか。たぶん映画版25話「Air」の、マギへのハッキングを赤城リツコ博士の666プロテクトでかろうじて阻止した状況で、冬月がゲンドウの耳元で「これはまだ前哨戦にすぎんぞ」と囁いてる感じである。本格的な戦い(戦自による本部の直接占拠)はまだ始まっていないのだろう。
ついでに「AKIRA」で考えとくと、地下の冷凍庫から地上に這い出してきたアキラくんを軌道衛星からのレーザー照射でメチャクチャ攻撃するものの、結局行方をロストしてしまうあたりか。いずれにせよ本格的な破局は(数ヶ月後か数年後かわからないが)まだ少し先にあるような気がする。

(以下ネタバレあり)

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2008年09月06日

●「崖の上のポニョ」とかvsバーレーンとか

心配されているバーレーン戦だけど、ボクは意外と完勝してしまうのではないか、と予想している。しかしそれが果たしていいことなのか、と問われると、話は別である。
現在の岡田ジャパンはもはや「層の薄くなったジーコジャパンの2番煎じ」というしかないが、もし中村俊輔という換えの利かないプレーヤーが不在になったらいったいどうするつもりなのだろうか?
俊輔はもともと腰に爆弾を抱えている上に、年齢的にも大きなケガをいつ負ってもおかしくない30歳である。特に今回の最終予選は1年間の長丁場であるだけに、そのリスクは高い。おそらく監督にはその非常時を乗り切るプランはないんじゃないか。

(公開2カ月目だしもういいかとも思ったけど、以下いちおう念のためネタばれあり表示にしておきます)

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2008年08月28日

●「スカイ・クロラ」

(大したネタばれはないけど、念のため以下ネタばれ少々あり)

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2008年07月31日

●『歩いても 歩いても』

一昨日の晩、つい朝まで過ごしてしまった。
しかもその翌朝から客先と会議があるというのすっかり忘れて飲み倒していたので、明け方ふと正気に戻って慌てて帰宅、2時間ほど仮眠を取ってシャワーを浴びて出掛けたのだった。
会議中、冷や汗が尋常でないほど流れ落ちる以外には特に問題なかったはずだけど、もしクライアントに陰で「あの人なんだか酒臭かったですね~」とか言われていたらどーしよう、といまだにちょっと不安。

で、それ以来すっかり体調と頭の調子が狂ってしまったので、本棚から「エロイカより愛をこめて」を掘り出してパラパラめくってみたり、ゴロー作「ゲド戦記」をかけ流したり、ただひたすらダラダラ過ごす。頭の中で「ポニョ」の歌がひたすらリフレインしてて気持ち悪い。
今は浦和-バイエルンを見ながらこれを書いている訳ですが(現在1-4とボコられてる。情けない)、試合が終わったらもう寝てしまおうかなと。なお「ゲド」については、ここではノーコメントです(笑)>月野さま

(以下、特にねたバレというほどのものはありませんが、ダルいので手短に映画の感想を備忘録がわりに残しておきます)

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2008年07月08日

●賢人とバカとドレイ

昨今の洞爺湖サミット関連ニュースを見てて思いだしたのが、竹内好が引用したので有名な魯迅のこの寓話。
曰く

「ドレイは、仕事が苦しいので、不平ばかりこぼしている。賢人がなぐさめてやる。「いまにきっと運がむいてくるよ。」しかしドレイの生活は苦しい。こんどはバカに不平をもらす。「私にあてがわれている部屋には窓さえありません。」「主人にいって、あけさせたらいいだろう」とバカがいう。「とんでもないことです」とドレイが答える。バカは、さっそくドレイの家へやってきて、壁をこわしにかかる。「何をなさるのです。」「おまえに窓をあけてやるのさ。」ドレイがとめるが、バカはきかない。ドレイは大声で助けを呼ぶ。ドレイたちが出てきて、バカを追いはらう。最後に出てきた主人に、ドレイが報告する。「泥棒が私の家の壁をこわしにかかりましたので、私がまっさきに見つけて、みんなで追いはらいました。」「よくやった」と主人がほめる。賢人が主人の泥棒見舞にきたとき、ドレイが「さすがに先生のお目は高い。主人が私のことをほめてくれました。私に運が向いてきました」と礼をいうと、賢人もうれしそうに「そうだろうね」と応ずる」という話。

あまりにそのまんまな構図なので、かえって笑ってしまう。
言うまでもなく「賢人」とは国際政治や経済を操っている(つもりでいる)G8首脳や閣僚、役人連中。解決するつもりもない「食糧問題」なんぞを議題に挙げてお茶を濁していますね。飢餓と貧困をなくしたいんだとか。「いまにきっと運がむいてくるよ」とか言って。
いっぽう「バカ」は特に理由もないのにそこにいるだけで警察にボコられているデモ隊の皆さんで、「ドレイ」はその他大勢のわれわれ。「ドレイが大声で助けを呼ぶ」仲間の「ドレイ」とは警察のことで、「主人」(日本政府)に報告する「ドレイ」とはマスコミのことである。
そういえば(別件だが)日経の記者が活動家に「バカ」ってメールを送ったってニュースもあった。その記者は正しい。そのメールに「ドレイより」と署名していればもっと正しかっただろう。あと「警察がんばれ こんな糞偽善者集団などさっさと排除しろ!!」とか書き込んでるネットの人とかね。
なるほど日本は昔も今も「ドレイ」の国である。

ちなみに竹内は「後進国」的な(「抵抗」が強いという意味である)中国に比べて、日本の先進国性をどこか後ろめたく感じていたようだが、なに、あと10年も経って日本の下層階級が中国に出稼ぎに行くようになれば、ホンモノの「奴隷」として使役されるようになる。
そうなった時、日本人は初めて「ドレイ」根性から脱却できる(「東洋的抵抗の契機」を手にすることができる)のではないだろうか。希望を失うことはないのである。

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2008年06月30日

●Aveはスペイン高速

一時は決勝がトルコvsロシアになったらどうしようと(30%くらい)本気で心配したものだった。
それでも大会中でもっとも攻撃的なチームの一つが優勝してくれて、終わりよければすべてよし、である。正直なところ、グループリーグでのオランダが最強だったと今でも感じるし、あの時のオランダを見てしまった衝撃で、他のチームにはいささか不感症ぎみになったのは事実だけど。

今大会でもっとも感じたのは、短い試合間隔でのコンディショニングの向上と監督のマネージング能力の重要性だった。たぶん多くのプレーヤーが日常的にチャンピオンズリーグやUEFAカップを経験しているお陰で中2日くらいで試合を続けるコツを学んでいるのだろう。しかしそれ以上に重要なのは、ヒディンクやアラゴネス、テリムといったベテラン監督が掌握したチームの強靱さだった。それはイタリアやオランダのもろさと対照的だったと思う。そもそも元スタープレーヤー監督というのは2世議員と似たようなもので、最初から能力以外の部分でゲタをはかせてもらっているのである。それがいきなりトップチームの監督になってうまくいくわけがないのだ。(もちろん代表の人気がクラブチームに及ばないヨーロッパではスポンサー対策や集客力の面で意味があるんだろうけど)
ところで全然関係ないが、ボクの地元は石原某知事の息子の地盤で、ポスターがたくさん貼ってある。そこには「変えてみせる この国を」とかゆう惹句が書いてあるんだけど、この国が変わったら一番最初に困るのは、血筋以外には取り柄のないお坊ちゃん議員だろうによ、と、少なくともボクら下々の者は多くそう感じているはずだ。こういう自覚のかけらもないポスターを臆面もなく公表できるのは、きっと本人並みに周囲のスタッフが無能なのに違いない。

もろもろの事件があってもはやイタリアサッカーの威信は崖っぷちだが、その点でW杯予選にむけ代表監督をてリッピに戻したイタリアは正しい。南アW杯では予選で落ちるのは論外だが、最低でも本戦でベスト4を狙うのならこの人しかいないだろう。
できればフランスやオランダのサッカー協会にもそのくらいの自覚を持ってもらいたいけど、もしかしたら今後の監督人選でサッカーの歴史的な1流国と1流半の違いがあらわれるかもしれない。

なにはともあれ「めでたしエスパーニャ」である。
(ちなみにAveでWikiを見たら「AVEは"Alta Velocidad Española"(「スペインの高速」の意)の略称」とあった。なんともすばらしい偶然!)

2008年06月22日

●サッカーの神への祈り

業務をこなしながら原稿を書き、その合間にUEFAユーロ2008を生放送で観る、なんて日常を送っているので生活リズムがグチャグチャです。
もはや自分が眠いのか、腹が減っているのかすらよくわからない・・・。
こんなに身も心も捧げているのに、なんでクロアチアもオランダも負けてしまうんだぁああ!
毎朝、朝日がむなしく眩しいよ・・・。
嗚呼、せめて今夜はスペインが勝ちますように。
ホントは普段はアズーリのファンなんだけど、スペインが負けたら攻撃的な魅力のあるチームが今大会もまた全滅してしまう。
もうそんなジリジリした(玄人好みの?)退屈な準決勝なんて、観たくないんだ!!

2008年06月08日

●欧州選手権開幕と憂鬱な放課後

初日のスイスvsチェコ、ポルトガルvsトルコと、まるで「欧州サッカーの見本市」を図ったかのような組み合わせ。
前者のサッカーにはミッドユーロのいかにもコレクティブな組立で、特に攻守にナタで敵の骨を叩き潰すような迫力があるし、後者は欧州の東と西の端同士で、ちょっと南米に似た独特にクセのあるドリブルを中心としたサッカー。いずれにせよ充実した内容で、しかも色(特長)のハッキリしたサッカーは見ていて楽しいねぇ。
では、われらが岡田ジャパンのサッカーの色はと考えると・・・、気分も内容もどんよりネズミ色です。

(以下映画ネタばれあり。しかも内田けんじ「アフタースクール」は先にストーリーを知ってしまったら何の意味もない映画なので、まだ未見で今後見る予定の方はぜったい以下を読まないようにしてください!)

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2008年06月06日

●「愛の共同体」としてのトヨティズム

「日本vs西欧」という問題系が現在では滑稽に感じられるのは、以前も書いたけど、高度経済成長期が終わって「西欧のキャッチアップ」という主題がリアリティを失ってしまったからだ。道元はデリダに似てるとか、奈良の仏像はミケランジェロを超えてるとかいう評論は、べつに哲学でも批評でもはなく単にイデオロギー的な言説にすぎない。もちろん田邊元はドゥルーズであり西田幾多郎はラカンであるという中沢新一の『フィロソフィア・ヤポニカ』(集英社)もとりあえず(この人の他のすべての著作と同じく)単なるイデオロギー的言説にすぎないとは言える。

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2008年06月01日

●C・ロナウドは21cのレジェンドになれるか?

じゃあ、ボクも欧州選手権の予想を。
・・・こういう大会に勝ち残るにはいくつかセオリーがあって、
1)早めのグループリーグに入る(試合の間の休日が多い)
2)同じグループに本命(強豪)と目されるチームが3つ同居しない(難しい組にはいるとコンデションのピークを早めに持ってこなくてはならない)
という点をまず考える。今大会で言えば、
C組のオランダ、イタリア、フランスはナシ、A組とB組の本命であるポルトガルとドイツが優勝候補筆頭、ということになる。

ただ問題は、準々決勝でいきなり両者が激突してしまった場合。つまり
3)決勝トーナメント初戦で本命(強豪)と当たらない
もし当たってしまうと、たとえ勝ったとしても残り2試合(W杯なら残り3試合)を闘うコンディションを維持するのはかなり難しい。
たとえば昨年のアジアカップは、こうした条件の当てはまる典型だった(比較的ラクなA組で、実力が伯仲したベスト8の中でも比較的劣るタイと当たったイラクが優勝)。

てなわけで、もし準々決勝ドイツ-ポルトガルとなると、C組D組に芽が復活してくる。
この時有利なのは、たぶんD組のスペインとロシア(やっぱりイタリアとフランスはない。オランダはグループリーグ敗退)。スペインは戦力的に充実しているし、ロシアは前回のギリシャ・レーハーゲルの奇跡をヒディンクがやってのけるかもしれない。

んで、ボクのベスト4予想はポルトガル、クロアチア、ロシア、スペイン。
優勝はポルトガル、といいたいところだが、大本命のドイツ(でも、ポルトガルの位置にドイツが上がると、なんとも魅力に欠けるベスト4に見えてしまう・・・)。
逆に、これでポルトガルが優勝すれば、C・ロナウドは21世紀最初のレジェンドに上り詰めるだろう。ていうか、R・バッジョなんかと違って、このプレーヤーは正直負けた姿が絵にならない、いや、むしろみっともない。勝って、勝ち続けてナンボの選手なのである。

2008年05月21日

●シーズンオフ

ヨーロッパのリーグ戦が終了し、今夜の大耳争奪連盟(チャンピオンズリーグ)決勝が終わると、しばらくは代表戦を楽しむ時期に入る。んで、今年は特に欧州選手権があるので結局wowowに加入してしまったのだった(4年前のこの時期、wowowに加入している友人の家に明け方押しかけるというザマだったのである。申し訳ないSくん)。
でまあ、今週はその前哨戦としてu23とかフル代表の試合があるわけですが、その話はあんまりしたくないや。なんか岡田監督の代表チョイスはどことなくジーコ監督の劣化版を思わせるので、あまり楽しい期待が持てないのである。

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2008年05月11日

●ゴダールはDVDで見る?

昨日、ある方から「ゴダールの映画ってDVDで見た方がいいって聞いたんだけど、どうなんですか?」と訊ねられた。
いちおう昨年ゴダール論を公表した者としては真剣に考えてみたけど、しかし結論としては「DVDは所詮DVD」にすぎない、とボクは思う。

たとえばゴダール80年代の傑作の一つである『右側に気をつけろ』は、冒頭いきなり耳をつんざくような電話の呼び鈴で始まる。
映画館で見た経験のある方なら誰でも(爆音上映でなくても)、あの、頭蓋骨から身体じゅうの骨まで共鳴するような、不快なまでの「ジリリリリリ」という音には強烈な印象を受けたことだろうと思う。
じつは昨年、ボクはあれをもう一度個人的に体験したくてDVD版を買い、ヘッドホーンをしてTVを最大音量にして見てみたのである。
しかしその音響は、残念ながら到底映画版のそれに及びもつかないものだった。
フランソワ・ミュジーによる、映画の観客がまるで宇宙空間にいるような澄み切ったエッジの立った音響空間(って、宇宙で音は聞こえないわけですが…)と比較すると、真剣と竹光くらいの違いがある。
まるっきりエッジがない。音が切れない。もやもやしていて気色悪い。
これは、もしかしたらDVDにデータを落とす際に(ある種のCDみたいに)ある周波数以上をカットしているのかもしれない、とさえ感じられたのである。

周知のように80年代以降のゴダール作品とは、要するにフランソワ・ミュジーの音響設計に尽きるといってもいい訳で、それがメーカーの配慮(都合)で勝手に家庭のTV鑑賞用に当たり障りがないような音響に変更されているだとすれば、厳密に言えばそれはもはやほとんどゴダールの映画「ではない」。
ゴダールがどこかで言っていたとおり、ビデオ(DVD)は所詮ファラオの財宝(思い出)でしかないのである。

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2008年04月30日

●心ならずもマンU応援

サッキがいうとおり、今年のマンUはイタリア風にこすっからいチームだし、アーセナルのファンとしてはさらさら共感するつもりもないんだけど、しかしなぜか悪意を持てない理由はただひたすらそこにテベスがいるからである。
ドリブラーとしてはクリスチャーノ・ロナウドを超えられず、ストライカーとしてはルーニーに一歩譲り、さらに代表ではメッシがいるという、幸か不幸か周囲に同世代の綺羅星のごとき俊才たちが群がり集まってしまった環境で、それでも生き延びようとするテベスの「2流の人」としての意地と誇りについ心をふるわせてしまう。
そうは見えないかもしれないけど、ギグス(当時欧州屈指のドリブラー)やスコールズ(じつは天才!)を前にしたベッカムと(容姿を除けば)じつは似ている。あの美しい右サイドからのクロスは凄まじい努力の賜物だった。いや、だからといってベッカムが好きだったことは一度もないんだけどね。

2008年04月21日

●安田講堂と本願寺

コジェーヴによる「スノビズム(江戸期=ポスト歴史)」論は、近年では『動物化するポストモダン』の東浩紀や『ポストフォーディズムの資本主義』パオロ・ヴィルノによって「ポストモダン」という概念の論拠の一つとされている。89-91年以降の状況についてはむろん様々な議論があるだろうが、しかし江戸期の「形式化」された価値観=スノビズムというアナロジーはどうして成立したのだろうか。

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2008年03月25日

●万田邦敏『接吻』

観に行ったのは平日の午前上映だというのに、ユーロスペースの客席は8割がた埋まっていた。タレントのファンでもなさそうだし、ちょっと驚き。

(以下ネタばれあり)

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2008年03月20日

●都市の「ネオリベ」化と「ポストモダン」造景論

 最近、80年代に流行した都市論・風景論を読み直す必要があって、その1冊としてオギュスタン・ベルク『日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代』(篠田勝英訳、講談社現代新書)を読んだ。文末に「1989年8月」脱稿とある(平成元年!)から当然時代遅れになっている面は多いわけで、少なくとも今では「西欧対日本」という対立図式は恥ずかしくて呈示できないだろう。この種の文化的対抗論は、その背景に経済的実力を伴っていないと単に滑稽なだけである。セザンヌは山水画に似ているとか、ミースには日本建築の美学が見てとれるとか、著者はほとんどデマに近いことを滔々と述べるのだが、ただし注目したいのはそこではない。
 この頃の都市論が標的としていたのは、コルビュジエ等に代表される20世紀前半のモダニズム建築=都市計画である。これは「機能主義=近代科学技術の盲信」という偏見を伴ってしばしば俗耳に受けいれられやすい主張なのだが、驚くべきことにこの著者は「機能主義」が「都市に対して住居を自律的なものに」し、都市の風景の「破壊を目指した」と主張するのである。「目指した」って・・・モダニズムとはテロの一種なのか? こんなデタラメな本が2007年にもなお版を重ねていることには改めて驚かされるが、しかし読み進めていくうちに、これが著者の誤解とか悪意ある偏見という類ではなく、「西欧近代のパラダイム」を越えた「造景」という思想を導くために必要不可欠なデマゴギーであることが理解できる。
 「造景の時代の人間は自身の主観性と事物の現実との関係を意識的に調和させ、したがって環境に向けた自身の視点を客体化することで風景を管理できるようになる」と著者はいう。具体的には「環境をイメージに同一化する」こと、美的想像力に基づいて地域や歴史といったコンテキストをイメージ化するということである。要するに「フジヤマ・ゲイシャ最高!」をもっともらしく言い換えてるだけなのだが、しかしこの著者のトンデモっぷりを現在のわれわれははたして嘲笑できるのか? 90年代以降の「自然」や「伝統」に配慮した(とされる)都市の再開発は、現実には共同体のコンテクストに属しない存在(浮浪者や外国人)を「美観」の名のもとに排除する口実を得たのである。「自身の視点を客体化することで風景を管理」するのは「市民」ではなく自治体やゼネコンであり、それらが率先して(特に東京や大阪で)行っているネオリベ的なクリアランスは、そのイデオロギー的な根拠をポストモダン的な「美」に置いているのではないのか。
 じつのところ、こうした「造景法(シーノグラフィ)」擁護というポストモダン・イデオロギーは、たとえば一見浮世離れした大室幹雄『月瀬幻影』(2002年)のような、知的にははるかに洗練された著作にまで一貫しているのである。

2008年03月16日

●アーカイヴ9「琉球独立党資料集」書評

「沖縄」という問題とは何か。それは誰によって、誰に対して、どこに定位されるのか。この一見自明な前提を前にして、沖縄をめぐる問いのすべては苛立ちと共に立ち止まっている。
 大多数の「日本人」にとって、沖縄はすでにマイノリティですらない、という断定はむろんあまりに不当である。だが、1972年5月15日の沖縄「返還」以来、75年沖縄海洋博、87年海邦国体、2000年沖縄サミット開催という段階的な政治馴化は、ひたすら「沖縄」という問題の相対化と抹消を目指してきたのであり、その結果としての現在がある。今や沖縄県における米軍基地問題、沖縄県における歴史問題、沖縄県における環境問題は存在しても、それ以外ではないのだ。
「沖縄」という問いを発するのは誰か。もちろん「沖縄人」自身である、という定義もまたかならずしも自明ではない。それは沖縄県民もしくは出身者を指すのか、奄美諸島を含む南西諸島全域の住民という意味か、あるいは「琉球民族」と呼称されるべきか、そこに「本土」からの移住者は含まれうるのか、等々…。「沖縄」という固有性は、日本人のみならず沖縄人を自認する人びとに対しても、価値転換としての「政治」的な反問を強いるはずである。
 したがって「琉球独立」という問いは、幾重にも錯綜した課題と宛先とをあらかじめ抱えこまざるをえないのだ。60年代後半、沖縄は「復帰」をめぐる諸々の闘争で沸き立っていた。70年夏に発足したという琉球独立党の活動もそのひとつであり、本書に収められた党文書はすべてこの時期に集中している。植民地的な状況が強いる諸勢力の圧迫の只中にあって、初代党首・野底土南によるどのテキストにも、この問いかけの切っ先を、誰よりもまず自らに突きつけなければならないという怨嗟と痛みとがあきらかに見てとれる。「一六〇九年以来の外国武力支配と両属政治によって馴致されたところの精神病、他力本願、怯懦、退廃、奴隷根性、劣等感、迎合、諦観、自暴自棄、裏切り、買弁、二枚舌、たいこもち、厚顔無恥、無知無能など。/これら諸悪のカタマリ」(「被抑圧民族としての自覚を」)。しかしこの苛烈なまでの自虐は、植民地主義的な世界秩序に闘いを挑んだ「第三世界」の、たとえばエメ・セゼールのような詩人=政治家にも共有される、避けることのできない病理でもある。「われわれの下劣さと放棄から発芽した、夜の畸形の球」(「帰郷ノート」)。
 当時からすでに30年余を経て、現在、沖縄を取り巻く情勢が一変してしまったのはたしかである。グローバル化した「ネオリベ」的潮流に漂流する「国民国家」は(アメリカ合衆国という唯一の巨大な例外を除いて)もはや至高の価値ではなくなっている。平和を享受する地域では「敵対性」に基づく政治が時代錯誤な観念として廃棄されかねない一方で、剥き出しの権力が憎悪をぶつけ合うアリーナでは死者の頭数で和平が取り引きされる。だが、そこで真に問い直されるべき「政治」とは、世界を分割しているこの絶対的な差異にあるはずである。「琉球独立」が投じる剣は、「沖縄」という問いの輪郭を素描しながら、同時に、世界を配分する政治そのものへの抵抗の試みにほかならないのだ。
(「週刊読書人」2006年10月20日号)

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2008年03月14日

●アーカイヴ8『マレーナ ディレクターズ・エディション』解説

万華鏡(カレイドスコープ)の想像力

自転車と少年
 少年時代とはおそらく子供らしさと大人っぽさとを同時に身にまとう曖昧で中間的な季節の過ぎ行きのことなのだろう。過度の「男らしさ」に憧れ背伸びをしながら、同時にまだ幼年期の柔らかい肌を脱しきつていない受動的な繭の中で欲望を震わせている、それは極めて不安定な存在なのである。少年が最初に手にする自転車は、そうした「男らしさ」の象徴であるのと同時に、二つの時期に引き裂かれた不安定さの暗喩でもある。そして、レナートが父親に導かれて中古の自転車を手に入れるシーン(フレームがアフリカ製、ギアがドイツ製、チェーンがシチリア製と、当時のイタリアの勢力図を思わせる部品の数々)【チャプター2】から語りはじめるジュゼッペ・トルナトーレは、『マレーナ』という映画にういういしい少年の欲望を刻印しようとする。地中海の空の残酷なほどの晴れやかさが、少年のはかない出会いと別れの季節を祝福するかのように輝いている。

繊細さとアンバランス
 そのあまりに冷静で水際立った作品構築の手際ゆえに、トルナトーレの映像表現はかえって時にわざとらしく野暮ったいという批判を受けることもある(それは典型的な誤解である)。だが、「寓話を使ってもシチリア人は描けない」(『トルナトーレのシチリアで見た夢』)と主張するトルナトーレは、今回のディレクターズ・エディション(イタリア国内公開版)でそうした中間的な存在としての少年を繊細に描き出すことに成功している。
 ただしその繊細さとは、しばしば大人が少年に対して勝手に抱いている感傷的な思い入れ、という意味ではなく、少年という存在の不安定さ、アンバランスさをそれ自体として正確に映し出す映像のうちに存するのでなければならない。成熟した異性への少年らしい憧れの向こうに、時として見るに耐えない無残な性欲が露わになったとしても、いや、むしろそこにこそ少年という季節のはかなさがフイルムに焼き付けられるはずだ、と、トルナトーレはそう確信しているかのようである。

過去と現在
 季節と季節との狭間でほんの一瞬輝く同義的な存在という意味でなら、事実、たとえばあの『海の上のピアニスト』とは、港から港へ至る海の上の暮らしで一時旅人の耳を楽しませるだけの、記憶にすら留められることのない曖昧なキャラクターではなかったろうか。そして何より『ニュー・シネマ・パラダイス』の主題である「映画」そのものが、つらい現実と現実の隙間でほんの2時間ほどの生を享受する、はかない可燃性の夢ではなかったか。
 「私の作品でヒットしたものは過去が舞台だ。それで私は“郷愁の監督”と…。過去を覗いて昔のシチリアを懐かしむのではない。私自身が過去のシチリアに現在を解く鍵を探しているのだ」(『トルナトーレのシチリアで見た夢』)
 トルナトーレの過去への執着は、思い出を宝石箱に閉じ込めた宝石のように保存するものではない。むしろ現実と現実の狭間で引き裂かれるように生きた慎ましい悦びや痛みの追体験に向けられているのだ。
 『マレーナ』においてもまた、戦争勃発から終戦直後までの数年間という狭間の時期を生きる少年の子供っぽい夢想と大人の眼差しとの生々しい振幅は、デイレクターズ・エディションで追加された幾つかのカットとシーンに確認することができるだろう。

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2008年03月12日

●アーカイヴ7『HANA-BI』が曝露してみせたもの

 北野武脚本・監督・主演作品である『HANA-BI』に対する一般の評価をいまさら述べるまでもないだろうが、昨年のヴェネチア映画祭でグランプリを受賞し、パリの『カイエ・デュ・シネマ』といった専門誌の評価も高く、同時に北野としては各国で例外的な観客動員数を達成したという、最近の邦画の中では稀有な作品だった。だが、さまざまな場で論じ尽くされた感のあるこの映画をここであらためて取り上げてみたいと思うのは、作品自身があらかじめそうした批評のあり様を体現していた点に、批評があまりに鈍感だったのではないかという疑問に発している。端的にいって『HANA-BI』が暴露してみせたのは、批評の、何かを否定し、何かを肯定するという相対的な機能がすでに内実を失っているという事実である。
 たとえば、こんなシーンを思い出してみる。
 回復の見込みがない病の妻・美幸(岸本加世子)が湖畔で一心に枯れた草花に水を注している。その側で暇をつぶしていたサラリーマンが見ず知らずの彼女に、「死んだ花に水をやってもしょうがないんだよ! おまえ、頭おかしいんじやないの?」となぜか苛立つように言いつのり、だが次の瞬間、元刑事である夫の西(ビートたけし)は彼を湖へ殴り倒す。やがてこの哀れな通行人はパンツと革靴をのみといういでたちで寒空の下で自分の衣服を乾かすことになるのだが、ややコミカルに演出された一連のシークエンスについて、「美幸は夫が見ず知らずの他人に暴力をふるうのを見過ごしたのだろうか?」という素朴な疑問が観客の脳裏をよぎることは、ここで西の傍らにいたはずの美幸のショットが省略されていることからも妥当と思える。つねに「見つめる女」をヒロインに据えてきた北野の映画にとって、これは例外的な事態なのだし、むしろありふれた、物語の必然とさえいえる。この時点で西の暴力を妻の視線に晒すことは、ストーリーの展開上あってはならないのだ。というのも、これは、入院費の嵩む妻のためにやくざから多額の借金をし、返済のために銀行強盗を犯すに至った西夫婦の逃亡中に起きた小さな挿話のひとつなのだが、美幸が西の犯行を察知しているのか否かが判然としない(させない)ところに、美幸の無垢な聖性を感受させる仕掛けになっているからである。

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2008年03月09日

●アーカイヴ6「大きいお友だち」がアニメに群がる理由(わけ)

 一〇月から『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明監督の新作アニメが放映されている。タイトルは『彼氏彼女の事情』といい、同名の原作マンガが雑誌「ララ」に連載中である。ちなみにマンガを読んだ印象をいかにも内輪っぼく表現すれば、「ラブコメをベースにしたリリカルてんこ盛りな胸キュンコテコテ正統派少女マンガの王道」……というのはあまりにあんまりであるが、要するに、顔よし、頭よし、性格よしと三拍子そろった一見優等生、じつは単なる見栄っ張りでおっちょこちょいなヒロイン(このへんがラブコメ)が、自分に輪をかけて完壁に優等生な同級生に恋心を抱く(このへんが少女マンガの王道)、しかし優等生のはずの男の子もじつは「複雑な家庭の事情」ってやつを抱えている(このへんがリリカルてんこ盛り)……、と、うすら恥ずかしくも「正統派少女マンガ」の「お約束」を見事に踏まえた他愛のないお話である。しかしアニメではこの初々しいカップルに、作家・庵野秀明自身のやや偏った感受性と内面性がおもく、くらく投影されていて、どうもふつうの少女マンガを楽しむように無心ではいられない。今度の作品も『エヴァ』テイストな、アスカとシンジに演じさせたようなダークでハードな内面の葛藤劇を再現するのか? しかし「小さいお友だち」はともかく、「大きいお友だち」(私もその一味?)にしてみれば、あの庵野監督がいつラブコメの「お約束」を放棄して彼本来の資質を全開するのか、といったスリリングな予感には、これでなかなか子供番組らしからぬ嬉しさがある。
 この秋始まった新作TVアニメは一説では七〇数本にものぼるらしい。どの番組も高校生からもっと下の「小さいお友だち」向け番組である、というのはタテマエで、多くはLDその他関連グッズの購買層である「大きいお友だち」向けのマーケティングをきちんと抑えてある。それどころか番組の制作スタッフ自ら「一八禁パロディ本」(簡単にいうと、番組キャラクターを無断借用して作る、幼児虐待等のえげつない性描写をウリにした同人誌のこと)をコミック・マーケット、通称「コミケ」で販売していた、なんて事例も珍しくない。コミケとは、タテマエを介した隠微な性欲のおおっぴらな発露を擁護しつつ、ウタマロ、ホクサイといった江戸時代の消費文化の系譜に連なる「オタク・カルチャー」の中核をなす現代の祝祭なのである、とは、岡田斗司夫氏など「サブカル」系論者の口真似である。しかしこの主張は真実であるのか? 子供向けを称するアニメや特撮番組には、しばしば大人の側のイデオロギーが注入されているという認識はありふれている。よく知られた例では『ウルトラ』シリーズの何本かには、作品に参加した一人の若い沖縄出身の脚本家によって、当時の社会情勢を反映したある苦い寓意が込められていた。だがかつて作り手が沖縄という「反権力」のポジションを仮託しえた仮想空間は、三〇年という歳月を経て今や著作権法違反野放しのリゾート・ビーチ状態である。

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2008年03月05日

●アーカイヴ5『書かれた顔』

ダニエル・シュミット監督 1時間29分 3月上旬からシネ・ヴィヴァン・六本木で公開予定

 もし映画というものを、大量の観客動員を狙った映画と、映画祭向けの映画に分類できるとすれば、「キッチュ」「頑廃」「世紀末」といった語彙で語られることの多いシュミット作品は、間違いなく後者に属する。もちろんそれは芸術性や娯楽性の多寡とは何の関わりもないが、坂東玉三郎の舞台とインタヴューを軸に、成瀬巳喜男の映画『晩菊』の断片、劇中劇「黄昏芸者情話」、武原はん、大野一雄、杉村春子などの舞踏家、女優のインタヴュー、踊りなどで構成された『書かれた顔』は、ドキュメンタリーともフィクションともいえぬ曖昧な形式を持ち、その意味でシュミット監督自身のかつての傑作『トスカの接吻』を思い起こさせる。というかこの作品は、彼の映画に親しんだ人ならば既視感に襲われるような、なるほど独特の魅惑的な細部に満ち溢れてはいるのだ。迷宮的な舞台の奈落に、『カンヌ映画通り』のビュル・オジェそっくりに歩く玉三郎に、『ラ・パロマ』で見た控室の鏡台に、『今宵かぎりは…』を思わせる劇中劇に、仰け反るように倒れるヒロインに、窓から眺める夕陽に、武原はんに緩やかにに寄る名手レナート・ベルタのキャメラに、とりわけシュミット的“通俗性”の白眉といえる夕闇の埠頭で大野一雄が踊るシーンに、私たちはいつもながらうっとりさせられる。
 だが、この作品には何かが決定的に欠けているのだと思う。たとえば『トスカの接吻』の緩慢な時間の流れを裏打ちしていたのが、イタリア・オペラの大家ヴェルディの著作権保護期間の消滅という物理的な事態であるような。シュミット映画の〝世紀末的頽廃趣味″がリアルだとすれば、〝ヨーロッパ″が日々文字どおり摩滅していくのを、〝生″そのもののように私たちが触感できるからなのであり、でなければ〝世紀末的頽廃″など、日本のテレビCMと選ぶところはないのだ。
 ようするに『書かれた顔』という作品は、監督自身の敬愛するナルセの映画より、はるかにCMに似ている。「黄昏芸者情話」はあまりにエキゾチシズムがナマ過ぎ、二人の俳優の顔があまりに映画的な洗練を欠いている。玉三郎の舞台をもう一人の玉三郎が見るという仕掛けは、歌舞伎をシュミット的に異化する機能を充分に果たしているだろうか。プロダクション・ノートにいう「日本の記録でもヨーロッパの記録でもない、一種夢幻的な世界像」とは他でもないシュミット的世界の謂だが、ここでは単に日本でもヨーロッパでも流通する世界像に堕ちてしまっているように思われる。
(「ミュージック・マガジン」1996年3月号)

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2008年03月03日

●アーカイヴ4『弾丸ランナー』

サブ監督 1時間22分 テアトル新宿でレイトショー公開中

 『弾丸ランナー』で3人のキレた主人公がひたすら都会の喧噪の中を走り続けるのを見ながら、昔ルイス・プニュエルという人が撮った『ブルジョアジーの密かな愉しみ』という映画で、登場人物たちがひたすら意味もなくフランスの田舎道を歩き続けていたのを思い出した。『ブルジョアジー…』では、フランスのブルジョア階級の男女の友人が食事をしようとするのだが、レストランの主人が急死する、仲間の一人が警察に捕まるといった事件事故が常に起こって永遠に食事にはありつけず、男が警察に抵抗して射殺される、と思ったらそれはその男の夢で、さらにいろいろあっていよいよ食事を始めようとすると、幕がいきなり開いて、そこが舞台上のセットだとわかって、と思ったらそれがまた別の仲間の夢で、さらに目覚めるとそれがまたさらに別の仲間の夢で、…といった調子のタチの悪い冗談が延々2時間も続く、それはそれは人を食ったお話なのだった。
 『弾丸ランナー』で走り続ける3人は、レストランらしき厨房の下働きのおじさん(田口トモロヲ)とコンビニのアルバイター(DIAMOND★YUKAI)とチンピラ(堤真一)だから、こちらは日本の極貧労働者階級のカリカチュアとでも言ったらいいか。アルバイターは勿論ミュージシャン志望のシャブ中だし、チンピラは組長が目の前で殺られても何もできない意気地なしで、下働きは職場仲間にイジメられ、恋人にふられた腹いせを銀行強盗で晴らすつもりがドジってしまう。彼らを取り巻くヤクザと警察がさらに輪をかけて妄想的な連中で、その間抜けな様子が大袈裟な演出で語られる。殺すつもりが殺せない、追いかけても掴まらない、だからこんなヤツらにできるのは走りながら妄想にのめり込むだけと言わんばかりの皮肉な語り口なのだが、それが通りすがりの若い女を犯すという程度では、観客は自分たちの社会の想像力の貧困さに暗澹としない訳にはいかない。
 不愉快なのはラスト30分だった。どうせなら最後まで元気よく走ってりゃいいのに、3人は夜になると足を止める。おまけにけっこう仲良しになっている。叙情的なBGMにのせて慰安的な幻想(自分をふった恋人が優しく振り返ってくれたりする)に没入する3人。この無神経で甘ったれた感傷が倫理的に許せないのは、彼らの流れ弾で死んだ通行人の(妄想ではない)具体的なショットが映画の中にあるからである。事件に無関係な人間の死が許せないなどと道徳家ぶって言うのではない。映像と映像とが関連する意味に鈍感なのが、映画作家として犯罪的だというのだ。しかもその甘ったれた感傷がけっこう日本人になら受けるだろう、という商売人としての計算高さが二重に不愉快なのである。
(「ミュージック・マガジン」1996年12月号)

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2008年02月28日

●アーカイヴ3『リトアニアへの旅の追憶』

ジョナス・メカス監督 1時間27分 8月30日からシネ・ヴィヴァン六本木で公開

 この映画は、家族や友人の日々の生活を16ミリフィルムに収めた、いわゆる「個人映画」というジャンルに属する。第二次世界大戦中、ナチスによって故郷リトアニアを追われ、ドイツの強制収容所を体験し、アメリカに難民として亡命した一青年(ジョナス・メカス)が、27年ぶりに故郷で母や家族、友人に再会するという筋立ての、歴史の証言としての貴重さ。だが疑問もある。ビデオ・カメラが一般家庭に普及している現在、わざわざ35ミリの商業映画として公開する意義があるのか? メカスが母親と再会を果たすリトアニアの素朴な農村風景はなるほど美しいが、日記的な手法で描かれた〝個人的な体験″など、発表された1972年はともかく、戦争もメカスも当時の映画も社会状況も知らない観客にとっては退屈で、押し付けがましいだけではないのか?
 独りよがりな、というのは実は道徳的な批難なのだが、むしろこの映画に感じるのは、音と映像のあらゆる瞬間が過酷なまでに「政治」に刺しつらぬかれているという印象である。登場する無数の有名無名の人々の貌。リトアニアの自然。木いちごという言葉。メカスの家族や友人たちの立ち居振る舞い。家族の離散と再会。彼の母国語ならざる言語によるナレーション。なるほどどれもささやかな〝家族の肖像〟に過ぎないといえばいえる。だがここに立ち現れる抒情は、主観的な感情過多とは正反対の体験なのだと思う。「政治的」とは何もナチスやソ連の政治体制の教科書然とした解説や立場表明ではない(メカスはそんなことに一言も触れない)。それはぎこちなく、遊戯的で、演技=労働から遠く隔たったユートピア的なヴィジョンである。と同時に樹木の葉一枚一枚の震えに至るまで「歴史」に貫き通されているのをくっきりと浮き立たせるメカスの眼差しが、見る者を思考の運動へと促す。強制収容所に佇み、語りかけるメカスのやさしさ。「弟は外を見て回りながら思い出に耽っていたが、その周りを子供達が取り巻いていた。何てへんてこりんな人達なんだろう。こんなところへやって来て、物思いに耽っている、と子供達は思っていただろう。本当に変な外国人達だって。そうだ、走れ、子供達、走るんだ。私もかつてここから走りだした。しかしそれは命をかけた走りだった。そんな風に子供達が命がけで走ったりすることのないように。そう、そうやって走るんだ、子供達」。
 抒情が「政治」から無垢の領域だと信じている子供達(たとえばそれは岩井俊二の『Love Letter』やや是枝裕和の『幻の光』の観客である私達のことだ)にこの映画はどう映るのだろう。安易で独りよがりな感傷に安住するのではなく、人々を思考へ誘う、みずみずしい抒情のありように身をひらくことは、結局は観客の〝つとめ″であると思うのだが。
(「ミュージック・マガジン」1996年9月号)

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2008年02月27日

●アーカイヴ2『水の中の八月』

石井聰亙監督 1時間57分 9月9日から渋谷・パルコスペースパート3で公開

 テーマはネイチャーである。物語は少女が地球を救うのである。これで映画の内容は、九割がた語ったことになる。舞台は博多だが、あまり気にしなくていい。山笠祭りが見られるが、笠松則通のキャメラは相変わらず美しく、まるで観光パンフレットのようである。街は水不足で、「石化病」という奇病がはやっている。人々は突然道端に倒れ込んだりする。だが設定だけで生活感も肉付けもないから、ほとんど危機的な事態には感じられない。この世紀末の世界を救う少女は葉月泉(小嶺麗奈)という。水泳の高飛び込みでは、日本で屈指の選手である。高校の同級生である少年少女たちは、彼女に好意を持ったり、不安な未来をホロスコープで予測したりする。誰もがもちろんピュアでセンシティヴで、お肌のお手入れも行き届いているから、顔にはにきびの跡一つありはしない。ところで泉の姉の洋(戸田菜穂)も含めて、彼女たちの髪がみんな短いのはどうしてだろうか。登場人物は互いに鏡に映し出したようにそっくりなのだ。
 だが彼らはキャラクターではなくせいぜいナレーターに過ぎないと考えるべきだ。それぞれがやたらに長い台詞を喋る。その口調は会話でなくモノローグ、あるいは宇宙と生命に関する説教である。高飛び込みに失敗した泉は生死の境をさ迷い、奇跡的に回復する。泉は水や森や石の声を聴くようになる。石や樹木に耳を当てても、聞こえるのは自分の心臓の鼓動ばかりのはずだ。彼女は高飛び込みをやめたのだろうが、それに関する言及もない。石井聰亙監督自身が脚本も執筆しているが、物語の自然な展開は放棄されている。モブシーンはあたかも人形の群れが棒立ちしているかのようだ。これを普通、演出力の欠如という。ヴェンダースの『夢の果てまでも』を観た後の深い失望と腹立ちを思い出した。
 泉は最後に人類の危機を救うため、自らを犠牲に供する。すると渇水に喘いでいた街に雨が降り、石化病も癒される。通俗化されたガイア思想や供儀論の有効性を信じるのは当人の勝手だが、地球環境の問題は水こそが病んでいる点に存するのだし、酸性雨が森を枯らしているという常識は最低限踏まえてほしい。水=浄化なる図式を誰が信じるというのか。チープでナイーヴなのは石井聰亙の美質だったと思うが、これは映像うんぬんといった以前の問題だろう。
(「ミュージック・マガジン」1995年9月号)

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2008年02月26日

●アーカイヴ1『ファザーファッカー』

荒戸源治郎監督 1時間30分 6月17日から銀座テアトル西友ほか各劇場で公開

 例えば『大人は判ってくれない』のジャン=ピエール・レオーのような〝不運な子供″の一人に、内田春菊の自伝的小説を原作とする『ファザーファッカー』の静子(中村麻美)を数えてもいいだろう。つまり映画を活気づける彼らのアクションを心理的に保証するのが、強権的か偽善的な親と子の距離や葛藤なのだが、一方でパリという街は、J=P・レオ一にとって両親に、そして映画に庇護された空間でもあった。だからそこから逃亡する彼が最後に見せたあの忘れがたい表情には、自由と不自由とが交錯する存在の痛みといったものが刻みつけられていたのだが、『ファザーファッカー』では、長崎に設定されたその空間は、少女の見る南国的な鮮やかな色彩の幻想によって特徴づけられている。
 物語は刺激的なタイトルに反して、実父の家出から養父(秋山道男)の出現、心の弱い母親(桃井かおり)、ボーイフレンドとの交渉、そして妊娠と堕胎といった日常が淡々と綴られる。養父による性的虐待の場面も、直接の性描写は避けられ、やがて少女は「苛酷な現実と危うい夢のラビリンスを駆け抜けて、未来に向かって脱出する」。鈴木清順ばりの超現実的なセットや、なにやらブニュエルを連想させなくもない台詞(お前のここを、縫いつけてやる)が至るところに散見されるが、それにしても「ハードメルヘン」と銘打たれた、これら一切のほどのよさは、いったい何なのか。
 夢と現実が入り混じった叙情的な幻想は、絵解きをする前に気恥ずかしいほど凡庸で説明的だ。ビザール(異様)であるはずの養父まで、その一挙一動が意図と説明を背負って、秋山道男の持ち味が充分生かされていないように思う。“とんでもないこと″をあっけないほど日常的に語る荒戸監督は、小津安二郎に似た距離と抑制の人なのではなく、むしろ「わかり易さ」というコンセプトで映画を梱包し、現代に相応しい「商品」に徹しようとしている。だが「脱出」を爽やかで美しいというのは、あまりに抽象的な嘘でしかあるまい。最後に坂道を去っていく少女を打っていたのは、かつてJ=P・レオーの頬に貼りついていた、ひりひりするような存在の痛みとしての風であるはずだが、そんなものを現在の邦画に求めるのは、無いものねだりに過ぎないというべきだろうか。子供だましの嘘と映像には、いい加減にうんざりしているのだ。
(「ミュージック・マガジン」1995年7月号)

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2008年02月24日

●とほほ・・・

なんというか、代表の試合で一喜一憂せずにすむようになった(思い入れがないので)のが、ボクにとっての岡田ジャパンの唯一の美点である。
岡田監督への評価は当初と変わらず。監督(マネージャー)という職業に必要な「構想力」が致命的に欠けているので、場当たり的、もしくは選手を使い捨てするような対処療法的な治療しかできていない。「去年のアジアカップより前進」とかノーテンキな評もあるようだが、安田や加持の使い方はほんとうにあれでいいのだろうか。
率直にいって、岡田監督はアテネ五輪代表の山本昌邦監督と同じタイプなのだろうと思う(コーチとしては岡田監督のほうが優秀そうだけど)。
しかしそれでも10年前、加茂監督のコーチから昇格したあの1年間だけはいちおう監督らしく見えたのは、「ワールドカップ初出場」という目標と情熱が「構想力」の代わりを果たしていたのにちがいない。
今はまだ相手も本格的な分析を始めていないからいいけど、「個」の能力に特長のある「新戦力」が通用しなくなった時、彼はどんな手腕を発揮できるのだろう?
まあ、アジア最終予選は苦労するんじゃないだろうか。

しかし、そんなことより、アーセナルはビッグマッチ(ミラン戦)の後の弱小チームとの対戦だから苦労するだろうな、とは思っていたけど、中国代表顔負けのあんなひどいラフプレーでエドゥアルドを失って、挙げ句に終了直前にPK取られるとは・・・。
何もかもがトホホである・・・。

2008年01月05日

●謹賀新年2008

諸事情により正月気分からも新年気分からもほど遠いけど、とりあえず。

2007年12月13日

●まあ、善戦かな・・・

誰もが予想どおりの0-1。個々のプレーヤーのクオリティの違いは、残念ながらやはり値段ぶんだけはあった。浦和はこれだけ懐の深いプレーヤーが11人揃ったチームと対戦したことはなかろうから、これは「いい経験」というやつになっただろう。

しかしミランのほうも、今夜は予想どおりコンディション、大会レギュレーションに関わる諸々の条件に縛られて、まるで日本の50㎞制限の公道でアクセルを踏み込めないF1カーのよう。
試合直後の浦和のプレーヤーたちの、どこか侮辱された小学生のような表情は、明らかにそれを理解していたのだと思う。どの時間帯も完全にミランのコントロール下にあったし、イタリアらしいいやらしさを厭というほど感じたのではないか。いっそ昨年のドイツでのブラジル戦か、2000年アジアカップ直後のフランス戦のように、0-4か0-5くらいにボコボコにされたほうが、かえって爽快感があったかもしれない。
昨日のボカとアフリカの力量差に深くて越えがたい幅があったの同じように、いやむしろ今日の欧州チャンプとアジアチャンプとの間には対岸が見えないほどの距離が彼我に存在していた。

とはいえ、別にちっとも全然まったく失望する必要はない。10年前、代表がフランスでアルゼンチンに完敗したのと同じ位置に、今日、Jリーグがようやく立てた記念すべき日なのである。

・・・と、今夜は自分に言い聞かせて寝よっと。

2007年12月10日

●結局コンディション次第

週末のミドルズブラ戦でアーセナルが今シーズン初めて負けた。
もともとこのまま勝ち続けられるチームではないので驚きはない(サー・アレックスもそう予想していたのだろう)が、ただ調子が落ちてくるのは1月か2月頃と予想していたので、ちょっと早かったな、という感想。
たとえ強豪でもコンディションが悪化すればブービーのチームにすら勝てなくなるというのは、Jリーグのレッズと同じである。
まあ、ベンゲルのことだから、すでに何かしら手を打っているのだろうけど。

そのレッズがセパハンに勝って、3日後にミランと戦えることになったのはめでたい。
これもまた、前のゲームから1週間以上空いてメンタルとフィジカルの切替ができたことと、コンディションの落ちていたポンテが外れたのが、逆に吉と出たように見える。
Jのチームが花試合・練習試合以外でヨーロッパのチームと試合ができるのは今回が初めてだから、どこまで戦えるのか、やはり素直に楽しみではある。

とはいえ、実際に木曜の試合の展開を決めるのは、ミランのプラン次第だろう。
ミランとしては、当然日曜の決勝から逆算して試合のプランを立ててくる(しかも水曜にゲームのあるボカの方が休日が1日多いのも考慮しなくてはならない)。
ミランがラッシュをかければ、浦和から点を取るのは(点を取るだけなら)そう難しくないはずだが、しかしなるべくエネルギーを温存して勝たなければならない、となると話は別だろう。
ミランとしては開始20分で2点先取して残り70分を流す、というパターンが理想だろうけど、浦和としてはそうは問屋を卸させないはずである。
ミランのアタックを凌ぎきれば、逆に息切れした相手の隙を衝いて得点も十分に狙える。
今日の試合を見たアンチェロッティは、特に浦和の左サイドをケアしてくるに違いないし、そう思わせるだけでも浦和にはチャンスがある。
その意味でも今日の相馬の活躍は大きな意味があったはず。
木曜の試合も、今日みたいに全員が運動量を上げてミランを最後まで手こずらせてほしいと思う。

2007年11月29日

●プレミア4兄弟

CLに登場する最近のプレミアの強豪は、それぞれそれなりにキャラ立ちしている。
つねに優秀で自分に自信がありリーダーシップを兼ね備えた長兄マンU、内弁慶だけど自分の趣味の世界では驚くべき才能を発揮する次男アーセナル、ひたすら成績が良くて性格の悪い秀才の三男チェルシー、そしてアホの子なのか天才なのか傍目にはさっぱりわからない末っ子のリバプール、といった具合である。
でまあ、今年も三男までは無事CL予備試験には合格したわけですが・・・、リバプールは土俵際に追いつめられてからアホみたいに得点を重ね始めて、相変わらず何を考えているのかさっぱりわからないチームなのである。

オシム監督の後任として岡田武史元代表監督が取り沙汰されている。
もしこの安易ともいえる人事が実現すれば、川淵会長の「トルシエ以前への回帰」という願望というか「トルシエをなかったことにする」という精神病理的な妄執がある意味で叶えられるわけで、なるほど組織というのはトップの愚劣な思い入れ次第でいかようにも頽廃する、というよい実例となるだろう。
実際もし岡田氏が就任して、しかも彼の指揮官としての能力が10年前の水準と変わっていなかったとしたら、今世紀に入って急激にレベルの高騰したアジア各国(その原因はオーストラリアのAFC加盟と中東中堅国の強化による)のベスト4--つまり南アフリカW杯出場権--を得るのはかなり難しいと思う。
いや、あの当時ですら、心身共に絶頂期を迎えつつあった名波とナカタという特異なキャラクターがあったからこそ、かろうじて予選突破が可能だったのである。
(たとえば突破を決めたイラン戦での有名な岡野のVゴールは、ナカタの強引な突破力とシュート力があってはじめて可能となったものだった。今、あれほどの意志と状況判断力と技術を兼ね備えたプレーヤーがいったいどこにいるというのだろう?)
ジーコ監督の焼畑農業のごとき4年間によって痩せきってしまった代表という土壌--老オシムが愛情を込めて肥料を入れて、ようやく小さな芽が育ち始めたところだというのに--で、岡田氏がなにをできるとも、あまりボクには想像できないのだ。

まあ、本心ではオシム師のいない代表など、もはやボクの「情熱」の対象ではないので、どうなろうと知ったことではないし、監督はやりたいやつがやればいいのではないかと思う。
というか、むしろ冷たい関心と多少の悪意を込めて思うのだが、このあたりで一度日本サッカー界は、落ちることろまで落ちてみてしまったらいいのではなかろうか。さもないと川淵会長下の現体制の無能と頽廃が、きっと遠い未来にまで禍根を残すと思うのである。

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2007年11月16日

●恢復祈願

何を書いても不吉なほど懐古的になってしまう気がするので、今はただ「祈る」とだけ書いておきたい。
本当に大きな何かを失いかけているのだろうか、ボクたちは。

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2007年11月15日

●ACL決勝

大会前、浦和が優勝するには攻撃のコマが1枚足りない、と予想を書いた記憶がある。
たしかグループリーグではその気配があったけど、その後は要所要所で田中やポンテ、今日は永井というふうに見事な決定力を示してくれた。
これにはやはりシャッポを脱ぐというしかない。正直スマンかった。組み合わせの妙で、移動の少ない韓国で2試合、体力を消耗する中東遠征が決勝のみだったのも大きいとは思うけど、やはり本気になった浦和はさすがだった。

とはいえ、ふたたび傍目から冷静になって(気が早いですが)12月の予想すると、堅守をベースとしたこの戦い方では、クラブ世界選手権はやっぱり辛いのではないのかなぁ。
今日の2得点とも、もし相手にツェフやブッフォンのクラスのキーパーがいれば点になってなかった気がするし、オジェック監督に戦術的な駆け引きができるとは思えないし・・・。それにミランなら日本のDFには未知の水準のミドルシュートがあるだろうけど、対応できるのかな。また攻撃面では、リスタートで阿部のアタマをもう少し積極的に活用するとか、いろいろ隠し球的な芸当を見せてほしいなあ。

・・・とまあ、不安は尽きないわけですが、何はともあれ最初の試合をPK戦でも良いから勝ち抜いて、ミラン相手に爪痕の一つでも残してほしいものでございます。

2007年11月06日

●去年ルノアールで

DVDで初見。面白いというにはビミョーな気がするし、ムダにゴーカな配役ってほどでもないと思うけど、なんというか、今時の若者はいろいろ大変なのだなあ、と妙にしみじみとしたのだった。
ルノアールの店内の同じ客に被害妄想気味の主人公のオトコノコが、その被害妄想に対して妄想で対抗するんだけど、妄想の中ですら負ける、というのが基本パターン、といっていいのだろうか。
しかし古来、夢だの妄想だのといえば、バスター・キートンから諸星あたるを経て碇シンジに至るまで(ま、最後のヒトはビミョーだけど)基本的に願望充足の装置だったハズなのに、この主人公のオトコノコの妄想は、なんでまたこうも防禦的でネガティブな感情で占められているのだろう、と思うのである。
受動的な感情は連帯の基礎にはなりえない、と、こないだもスピノザを引いて小泉義之氏がブログに書いていたけど、しかし今時の若者は「連帯」するかわりに、きっと互いの傷のありかに「共感」しあったり、「癒し」あったりしているのだろう。痛ましいことである。
そういや小泉氏は「89/91年の断絶」を主張していた(連帯から共感へ、ということか?)が、ボクもだいたい90年代半ばくらいからか、自分より少し下の年齢の子たちが事あるごとに「ムカつく」とか口走るのを聴いていて、「この子たちは普段からよっぽど自分たちが世の中から攻撃を受けていると感じているのだなあ」という違和感を持っていたのだった。
(かくゆうボクは典型的なバブル世代なので、世の中とは基本的に幸福でノー天気なものだと信じていた。ちなみにボクよりさらに以前の世代はやたらと怒っていた--ムカつくのとはちょっと違う--けど、「ボクは怒ってないさ。ジョー・ストラマーのポスター剥がれ落ちる」と歌ったアズティック・カメラの歌詞に解放を感じていたのだった)
その意味では「去年ルノアールで」の男の子も(本の帯には「無気力文学の金字塔」と記してあるらしいが)むしろ「無気力」どころか、これは反撃的妄想においてすら敗北して疲れ果てている姿、といった方が正確な気がする。要するに広義の「癒し」ドラマなのである。

ところで。
先週末、つい「アーセナルvsマンU」に触れ損ねてしまったけど、たしかにまあまあ面白いゲームではあったのだけど、2~3年前までの、あたかもヤクザの出入りのごとき気合いと迫力でドツキあっていた両者と比べると、ルーニーもロナウドもセスクも若くて過去の因縁を知らない分、まだまだ互いに探り合いで腰が引けていた気がする。
きっと4月のオールドトラフォードの再戦で、今シーズンの優勝の帰趨がPKとか誤審とか退場とかで決まったりすると、来シーズン以降の対決が異様に盛り上がるようになるだろうから、本当の楽しみはまだまだこれからである。
(こっちはアーセナルのファンとはいえ、じつはルーニーとテベスの不良同士の友情が見てて妙に微笑ましいので、かつての絶頂期の圧倒的に勝負強かったマンUのように憎たらしい感じが、どうしてもまだ湧いてこないのだ)

2007年11月04日

●SPよりもガリレオよりも

鳩山法務大臣が久留米の秋祭り(!)で語ったところによると、「テロリストの怖いのが平気で日本をうろうろしている」らしい。
なるほど岡田准一クンのような超能力を駆使するスーパーSPが必要な時代なのかもしれないが、よくよく考えてみると、テロリストがうろうろしているにもかかわらず、日本でテロらしいテロが(オウム事件以外に)起きていないのは、つまりは標的にするに値する政治家が存在しないからにちがいない。たしかにテロリストが、このお笑い法務大臣の命と、自分の命を天秤にかけたら、自分の命の方が惜しくなるに決まっている。
そもそも今回の「大連立」のバカ騒ぎからもわかるように、政治家自身が政治的な対立に耐えうる精神と能力に欠けているのだ。つまり日本には「政治」が存在しないということである。つくづく殺し甲斐のない政治家どもというか、要するに彼らは政治家を装った詐欺師に過ぎないのだろう(知恵を付けているのはアメリカのペンタゴンあたりなのかもしれないが)。

そんな中「SP」というドラマが始まって--「おいおい、法相の発言はこの宣伝だったのかよ」と勘ぐりたくもなったのだが--、やはり設定に苦労しているのが面白い。初回、都知事を狙うテロリストは2人、「タクシードライバー」のパクリのような武器おたくと、東大法学部卒のオチこぼれ記者という、おおむね現在の国民が抱く反感の対象のイメージを集約したような人物造型である。
つまり政治的動機なんかはそこには一切なく、マニアと怨恨というごく個人的動機による犯罪なのだ。これをテロと呼ぶのは、いくらなんでもテロの拡大解釈である。
しかも彼らの背後には、じつはその個人的怨恨を利用して犯罪を計画する謎の組織が存在するらしいのだが、これまた冗談みたいな話で、そもそも本気で素人をテロの手先に利用するなら、ナイフやピストルなんて不確実な得物でなく、IRAやアルカイダのように爆弾を使用するに決まっている。おそらく謎の組織とやらも所詮「ごっこ」の域を出ないのだろう。

そんな訳で岡田クンと真木よう子好きとしては「SP」を贔屓にしたいところだが、残念ながら「ガリレオ」と大差ない「カッコつけてるだけ」という印象なのだった。
しかしまあ、日本の政治やTVドラマなんていうのは、おおむねこんなものである。平和でとてもよろしい。それよりも「トリック」の山田奈緒子さんの復活あるかも? という情報の方がボクにはよっぽど嬉しかったりするのだった。

2007年10月19日

●「サッド・ヴァケイション」

について書こうと思ったんだけど、諸事情により今回はパス。
vsカタールについても、長くなるのでパス。反町監督もプレイヤーのお子様たちも、大人に脱皮する良いチャンスをもらった、くらいに考えておこう。

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2007年10月17日

●vsエジプト

月野くんは大久保のゴールを当てた。エライ。
そんで明日のニュース記事には「個の力」というのがいっぱい出るのだろうな。しかしこの言葉がマスコミで使われる場合、せいぜいのところ「苦しいときの神頼み」以上の意味はない。「個の力」に真面目に言及するなら、本来は育成論からはじめるべきだが、あえてそこに乗るとするなら、今の日本に一番必要なのはDFの「個の力」であろう。人数が足りなくてなくも守りきれるDFがいれば、それだけ攻撃にかけられる人数と時間帯が増えるわけだから、当然得点力はUPする。中沢を越えるDF求ムである。
ま、今年は無事に終わってヨカッタ、・・・って、問題は深夜のvsカタールだっ! でも、面白い試合にならなそうだから、さっさと寝てしまうのであった。・・・あ、ユーロ予選もあったっけ!

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2007年10月02日

●この悲しみをどうすりゃいいの

8月のなかばくらいから、とんでもなく仕事が忙しくなってきて、しばらくここのカキコミもご無沙汰でした。
でも、まだ10月いっぱいはしばらくこんな調子なのだ。
(本格的なカキコミはいずれ「サッドバケーション」を見るヒマができたときにでも)

しかもこんな時に限って、スカパーのチューナーとDVDプレーヤーとパソコンのプリンタが同時に逝ってしまうという大惨事なのである・・・。
部屋にある電気製品というは、もしかしてボクの知らぬ間に示し合わせてるんじゃないかと思いたくなるバッド・タイミングだけど、仕方ないのでとりあえずプリンタだけは間に合わせに近所で購入してきたのだった(仕事に差し支えるからね)。
でまあ、ようやくセットアップを終了したわけですが、スカパーのチューナーは間に合わない。
つまり、なってこった、今夜のUCLは見られ~ん!
月野くん、かわりに見届けてくれい!
という、以上、業務?連絡でした。

2007年07月27日

●CM

新聞もネット情報も読んでいないのでよくは知らないが、きっとオシムと日本代表に対する罵詈雑言が溢れかえっているに違いない世間の喧噪から遠く離れて数日、ふと気がつくと予約注文していた「クリィミーマミDVDメモリアルボックス」がわが家に届いていたのだった(感涙)

「マミ」はたぶんボクが「銀河漂流バイファム」と並んでアニメのTVシリーズをリアルタイムで見ていた(「パトレイバー」と「エヴァ」を除けば)最後の番組で、伊藤和典氏の名前を覚えたのはこの時だったと思う。
今でも印象的だったのは(確認してみないと正確なところは再現できないんだけど)、マミのパパとママがテレビのクイズ番組を見ているというシーンで、
クイズ番組の司会者「映画界でMMといえばマリリン・モンロー。では、BBといえば?」
という問題に、回答者が「ボボ・ブラジル」と答えて、それを見ていた二人が、
パパ「え~っ、違うの?」
ママ「ばかね、ベティ・ブフに決まってるじゃない」
という、当時の子供番組としては超マニアックな会話(しかも正解はブリジット・バルドーだ!)を書いた「伊藤和典」という脚本家の名前を、どうして忘れることができるだろうか?

・・・というわけで、この週末は昼間から自宅でだらだらとお酒を飲みながら、涙ながらにこのDVDを見まくる予定である。なんというダメ人間なのだろうか!

2007年07月19日

●「個と組織」

アジアカップ8強決定。韓国やオーストラリアの敗北で荒れた割には、最終的にはけっこうバランスのいい組み合わせに落ち着いてしまった。2002のようなアップセットがなかったのは、結局第3戦でタイとインドネシアに2002韓国的な「確変」(あの大会の韓国は決定率が5割を越えていたと思う)が起きなかったという、要するに開催国の実力不足のためだったのかもしれない。
vsオーストラリアは、もちろん強敵には違いないが、しかしストロングポイントとウィークポイントが意外とはっきりしていて、対策は案外立てやすいのではないかと思う。地の利は明らかに日本にあるわけだし。

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2007年07月16日

●vsベトナム(ベトナムもアジアカップGL突破オメ)

試合自体は熱帯雨林の泥道をポルシェに乗ってジープと競争するような試合だったが、どうも今回のアジアカップ、2002WCのアジア版という感じがする。
高温多湿の気候とピッチ状況がゲームのギャンブル性を高め、開催国の予想以上の健闘が加わって、おそらく初戦の日本とオーストラリアの予想外の不調が大会全体の難しさにトリガーを引いてしまった。結果、それらに足をすくわれた強豪国が次々と敗北を喫していく・・・。
千葉時代からのオシムという監督は、リスクととって勝ちに行くときは際どいまでに勇敢だが、今大会前の弱気ともとれる発言を連発してマスコミの不評をかい(日本のマスコミというのはきっと強制されなくても「大本営発表」が好きなのだ)、実際にもかなり慎重なゲーム運びを選択していた。しかし、2002年にはFIFAの技術委員だったオシムは、どうもこの状況をある程度予想していたのではないか。
おそらく、状況と彼我能力差を厳密に測定しつつ、行くときは危険を犯して行く、退くときは徹底して退く、というメリハリのある采配を高いレベルでふるう「勝負師」肌の監督は、これまで日本には皆無だったと思う(ジーコもトルシエもベンゲルも「自分たちのサッカーを大事にしよう」というタイプである)。似たタイプとしてすぐに思いつくのは、むしろ(サッカーのスタイルこと異なるとはいえ)モウリーニョやヒディンクだろうが、しかしこうした「大人」の監督を評価する土壌がまだ日本には足りない気がする。
オシムの采配の特徴は、4-1とリードした時点で交替のカードを3枚使いきってしまったあたりにその一端が表れている。BSの解説の山本昌邦氏は高温多湿の環境やトラブル(キーパーのケガ等)を考えて、この時間帯の交替は2名まで、と考えていたらしい。おそらくセオリーとしては山本氏が正しい。しかしオシムは(おそらくそんなことは100も承知で)後半の残り時間30分近くあるのにすべてのカードを切ってしまった。
オシムにはたぶんマスコミへの言動とは裏腹に、オーストラリア戦を前に佐藤と試しておきたい、という腹づもりがあったのだろう。そしてベトナムの疲労度を考えると、日本チームのケガやレッドカードでたとえ10名になったとしても3点差がひっくり返ることはない、とも読んでいたはずである。こうした条件をすべて勘案した上での3人の交替だったのではないか、という気がする。

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2007年07月05日

●vsコスタリカ(U20WC)

枠内シュート2本で1点取ってしまったのだから、ある意味ラッキーとも言えるのだけど、しかしその幸運を引き込んだのは90分ファイトしつづけた忍耐強いプレーなのであり、それについては賛以外の言葉はない。
まあ、コスタリカはナイジェリアにも押し気味で戦いながら敗北したらしいから、あんまり決定力がないチームだという事情もあるのだが、彼らが最初からタフな戦いをしかけてきたとはいえ、普段Jでプレーしている日本の若者にとってみれば、そのプレッシャーはさほどでもなかったにちがいない。
その意味でJのレベルの着実な向上を実感した試合だった。
祝グループリーグ突破!

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2007年06月29日

●灰色の6月

ここ数週間、とても人には話せないダメダメな生活を送ってしまったのだった。
どのくらいダメだったかというと、例えば月野くんご贔屓の「相棒」のDVDシリーズ(たぶん20巻くらい)を全巻見てしまった。このTVドラマは当初、右京さんの「傲慢だけどちょっとおマヌケ」という感じのキャラから、かなり早い段階で「慇懃無礼でパーフェクト」キャラに方向修正したのが、成功の一因であるように思う。

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2007年06月23日

●舞妓Haaaan!!!

今日、のほほんと電車に乗っていたら、ナショナルという電機メーカーのエコ広告が目に入った。正確な文面は憶えていないが、おおよそ「エコといえばシロクマやペンギンについて考える、想像力豊かな人でありたい」云々といったコピーだったと思う。しかし、エコといえばシロクマやペンギンって・・・、それってむしろ「想像力の貧困」そのものなんじゃないの?
そういや富士通は最近までトウモロコシを原料にしていることを自慢げに広告で流していた(まだ流れてる?)が、それによって穀物の高騰が起こるという「想像力」は働かなかったのだろうか?
パーム油にせよ、植物を工業原料や燃料に使用するのは、なにか根本的な錯誤がある気がするんだけけど、日本の電機メーカーも大手広告屋も、環境問題について本当に真剣に思考し追求する気があるのだろうか? 単に流行に乗ってるだけじゃないのか? と、こう広告を見ると逆に疑問に感じてしまったりする。
(以下ネタばれあり)

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2007年06月06日

●vsコロンビア・・・

というのを、じつはすっかり忘れていたのである(なので感想はナシ。ビデオも見てないけど、中田と稲本が早い時間帯に交代した理由にはちょっと興味あるな)。

というのも、今日は、森美術館の「コルビュジエ・チューズディ」を予約していたのだった。チューターは八束はじめ氏。
八束氏はコメントも講演も面白くて、大学でもきっと良い先生なのだろう。コルもアイデアをいろいろこねくり回していくうちに傑作を仕上げていったので、最初の案はかなりショボかった、という実例を挙げながらの講演。凡才を勇気づけてくれるのである。
基本的には演者の解説を聞きながら展示を見て回るというこの企画、さながら参加者は親ガモについて回るヒナみたいなもので、その半分以上が建築専攻らしい学生さんなのは当然なんだけど、業界関係者でも何でもない門外漢のボクは「みにくいアヒルの子」のようなもので、なんか肩身が狭い。
とはいえ、話の内容は、ロンシャンの教会の外観が聖母子をイメージしている(らしい)という説とか、「輝ける都市」のプラン図に空襲の光景が描き込まれていること等、無知なボクが知らないことばかり。
コルとキリスト教神秘主義の暗合(?)とか、「都市計画」という概念と戦争との関連とか、個人的にいろいろ示唆されることがあって、聞きにいってよかったと思う。

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2007年06月01日

●vsモンテネグロ

この二週間ばかり、風邪で7度5分ほどの熱が下がらず、まだうつらうつらしているのダ。寝過ぎてかえって身体が凝ってしまった。そろそろマッサージ行って、酸素カプセル行って、飲みに行きたいのだけど・・・。

今日もTVを見ながら、難しい本は読めないので『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』(光文社新書)をパラパラとめくっていた。
そしてふと
「植民地解放の時代が、74年から75年にかけてのポルトガル帝国の崩壊をもって終わったのです。75年までにはほとんどの植民地が独立を果たしました」
という文章が目に付く。

そういえば、74年というと、サッカーでは西ドイツ大会、クライフの時代である。70年のブラジル優勝でサッカーの古典時代が終焉し、モダンサッカーの幕開けと位置づけられる大会だった。
その後、90年イタリア大会の開幕戦の衝撃があり、今や世界№1FWといえるコートジボワールのドログバに代表されるアフリカ勢の台頭がこの時期に始まったのは、おそらくアフリカの植民地独立と無縁ではない。
ただし、サッカーのモダニズムとアフリカ解放とが、どのような内在的な関係を取り結んでいるのか、まだいまいち判然としないのだが。

おそらくサッカーというゲームにおける身体性の位置づけが大きく変化した(端的に言えば持久力と瞬発力が以前と比較にならないレベルで求められるようになった)ことが関係しているのだろうが、しかし後藤建生さんあたりが、どこかできちんと書いてくれないだろうか?

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2007年05月16日

●リアリズムという「技術」――ゴダール論考補遺

ゴダールを、ゴダール自身の言葉のみを典拠に考えてみること。
そんな意図から書かれた「リアリズムという「信仰」――ゴダール『映画史』をめぐって」(『述-1』所収)には、それによってボクなりに得られた認識と、そこでは語りきれなかった主題とがもちろん多くあって、それについてここで少しだけ補足しておくのも無駄ではないような気がする。

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2007年04月21日

●スピーク・ライク・ア・チャイルド

仕事が忙しいからといってブログをいったんサボりはじめると、人間、はしてしなく怠惰になっていくのである。
まあ、大して書くネタもなかったわけだが。

いや、ネタがなかったわけでもなくて、先週から「帰ってきた時効警察」が始まったのだが、今回はエンディングのテーマソングもないからカラオケで唄えないし、前シリーズよりテンポアップしてるし(もしかしてDVDで「多めに」再編集するつもりなのか? 「Trick」第2シリーズの超完全版みたく)、ちょっと微妙・・・、と感じていたのだった。
(ただ、マカデくんのキャラは当たりかも。なんか前からの時効課にメンツより時効課らしいような)

んで、今夜の第2話、冒頭の三日月くんの自演ビデオテープ・・・。
あ、こいつは「カウボーイ・ビバップ」だ! 「闇夜のヘビィ・ロック」と並ぶ、シリーズ屈指の傑作だぁああああああ!!

・・・とまあ、どうせもう「2ちゃん」あたりじゃさんざんカキコミされているのだろうけど、でもボクはクサすつもりで指摘したのでないのだから別にイイのだ。というか、どっちかというと感動してしまったのダ。
なにしろ感動のあまり、「エリートヤンキー三郎」も忘れてカウビのDVDを見直してしまったのである。

涙滂沱。

たぶん、今回の「時効」は、単にシーンのアイディアというだけでなく、プロット自体がインスパイアされているんじゃないだろうか。
何といっても「失われた記憶」が無意識の底から届けられる、というテーマほぼ同一なのである。
ただし、フェイ・Vの記憶は「戻らない」ところが感動的なんだけどね。

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2007年03月24日

●『述』(近畿大学国際人文科学研究所紀要、発売:明石書店)発売

『述(じゅつ)』1号という雑誌に、西澤がで論考「リアリズムという「信仰」--ゴダール『映画史』をめぐって」(石川義正名義)を寄稿しています。
メインは「国家論」特集で、すが秀実氏、岡崎乾二郎氏等の論文が掲載されています。

■目次
特集 国家論
画家というタブロー--マネ『マクシミリアンの処刑』をめぐって  岡崎乾二郎
プラトン『国家』を読む  岡崎乾二郎
政治的共同体  マックス・ヴェーバー(訳と解題 紺野馨)
なぜアメリカ人を殺さねばならないのか--1998年のアルカイーダのファトワー分析  保坂修司
国家とアンペイド・ワーク  大越愛子
長き革命--毛沢東の社会主義  韓毓流(訳と解説 阿部幹雄)
ヘゲモンの生誕--六〇年代初頭の知識人界と「国家論」への道  すが秀実
藤原正彦『国家の品格』書評  渡部直己
柄谷行人『世界共和国へ』書評  池田雄一
井田良『刑法総論の理論構造』書評  青木純一

文芸批評批判序説  中島一夫
リアリズムという「信仰」--ゴダール『映画史』をめぐって  石川義正

●大型書店、オンライン書店で販売しています。
「述 1 特集国家論」
価格:¥1,995(税込)
出版社: 明石書店 (2007/3/26)
〈オンライン〉
Amazon.co.jp
ビーケーワン
〈東京地区〉
ジュンク堂池袋店、リブロ池袋、丸善丸の内本店、八重洲ブックセンター、紀伊國屋書店本店、紀伊国屋書店新宿南店、ブックファースト渋谷店、リブロ吉祥寺、東大駒場、芳林堂高田馬場店、三省堂書店神田本店、東京堂書店神田本店、書泉グランデ
〈大阪地区〉
旭屋なんばCITY、ジュンク堂難波店、ジュンク堂大阪本店、紀伊國屋書店梅田本店

2007年03月21日

●『藤森照信の原・現代住宅再見3』

「中学生日記」の黒川先生が「卒業」してしまった。悲し。黒川先生に会えるのを楽しみに毎週見てたのに…。まあ、4月からは「帰ってきた時効警察」の三日月くんに再会できるとはいえ…。

ACL第2戦、川崎フロンターレは試合の入り方に失敗して予想外の失点、終盤にオウンゴールで追いついて1-1と最悪の結果だけは免れた。試合後のインタビューで関塚監督も答えていたが、序盤の失点は主にメンタル・コントロールのミス、しかも失点に面食らって浮き足だってしまい、シュートが満足に枠に飛ばなくなってしまった。これは(プレーヤーが経験不足なのはわかっている以上)8割がた監督のミスと言われても仕方ない。関塚監督はとぼけていたが、内心忸怩たる思いだろう。
結局プレーヤーだけでなく、指導者も国際経験が不足しているのである。ガンバの西野監督も同様だが、ACLで結果を残さない限り、代表監督を日本人にという期待はしばらくかなわないままだろう。

(…なんて書いたら、浦和も開始1分でいきなり失点してやんの。やれやれ。ホームのチームが序盤ラッシュをかけてくるのは、ある程度想定しておかなくてはいけないと思うのだが…。ナイーブと批判されても仕方ない。まあ、各年代代表で国際経験のあるプレーヤーが多い分、チームとして早めに立て直せたとは思うけど。)

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2007年03月15日

●「深夜劇場へようこそ」終了、vsマレーシア(U22)

先週末、ふと気がつくとNHK・BSの「深夜劇場へようこそ」が終わってしまった。ボクのように演劇に対してうすい、うす~い興味しかない人間にとっては、小劇場関連の情報を知ることのできる貴重な番組だったので残念。特に冒頭30分の演劇人インタビューのファンだったので、欠かさず見ていた。
「BSマンガ夜話」にもちょっと感じたのだけど、制作現場にいる人同士が向かい合った緊張感と批評性の高い対話というのには、何にせよ魅力的である。それは「ゲンバ」の声と称する作家のモノローグ――主に自己PRを目的とした――とはちょっと違うのだが、しかし、もしかしてそうした対話的批評性というのは、今の世の中的にはもはや「お呼びでない」感じなのだろうか?

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2007年03月08日

●チャンピオンズリーグとACL

UEFAのCLとACLが同時に開催されると、結局2日間で5試合近く見てしまうハメになる。しかしそうやって見比べてしまうと、浦和や川崎の選手の「ぽよよん」という擬音を振りたくなるゴール前へのセンタリングとかがつい目についてしまうわけで、ヨーロッパの一流どころに比較していかにも不器用なJリーガーに文句を言いながらも、真剣に見入っているのはやはりこっちのほうだったりする。
アジア制覇には、浦和はマグノ・アウベスとか(かつての)エメルソン並みのタレントがもう一人二人必要だろうし、川崎は今年は経験を積めればよしとすべきだろう。特に川崎は、相手のDFの足元が覚束ないのに付け込めばいいのに、律儀に中盤を組み立てようとして自滅していた。中村憲剛は、3点目の押さえたシュートは巧かったけど、やはり周囲に合わせて経験不足が目立った気がする。

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2007年02月28日

●黒沢清『叫』

vs香港、試合当初からアメリカとの親善試合と同じ3トップ。反町監督の強気にやや驚く。解説の山本氏はしきりと「15分までに1点」と強調していたが、たぶんそういう意図なのだろう。で、カレン-平山の連携で先制点という、狙いどおりの得点だった。でも、機能したように見えたのは最初だけ、というのも、まあ予想どおり。後半いきなり家長投入というのも、リードしている側が普通に考えると早すぎるが、しかし今回のゲームプランから考えると理解できる。バランスが良くなったのだからリズムがよくなって2点追加という結果は、当然である。
さあれ、2次予選はチームを作る過程なので、システムもコンビネーションも至らないところはたくさんあるけど、まだアツくなる段階ではない。反町監督がいろいろ試していくのを(策士考えすぎ、という気もするが)サポも温かい眼で見ていればいいんじゃないかと思う。

(以下、映画ネタばれあり)

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2007年02月22日

●vsUSA(サッカーU22代表)&チャンピオンズ・リーグ、寝不足気味

3トップは、たぶんファーストチョイスではないのだろう。要するに予選は得失点差の争いになる可能性が高いから、反町監督は2トップ以外の点を取るオプションを試しておきたかったのだ、と思う。特に弱小国相手に大量得点を狙う場合の、しかもゴール前に押し込んだスペースのないアタックには有効かも知れない。(ただし逆に言うと、今の日本のFW陣にとっては、90分間3トップのタスクを維持するのは難しすぎる)その意味では、最終的にスコアレスドローだったとはいえ、家長の使い方も含め、反町監督としてはなかなか参考になるデータが得られたのではないだろうか。
ただ、個人的に平山はねぇ…。みんな「復調気味」と評価しているけど、どうなんだろう、彼は上半身の筋力が不足しているのではないか、と感じさせるシュートが多々あった。この人、本質的に「才能」だけでプレーしていて、トップレベルでやるだけのトレーニングが欠けているのでは? とも疑うのである。この手のタイプのFWに期待しすぎると、本当に大事な試合では裏切られるよ、というのが経験則なんだけど…。

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2007年02月14日

●鈴木成文『五一C白書 私の建築計画学戦後史』

昨日、仕事机の下の方を片づけていたら、今年付の未送付の年賀状(しかも宛名しか書いてない)が大量に出土した。
年賀状、出し忘れてた…。
ま、忘れたのはほとんど仕事関係以外のプライベートな宛先だけだったので助かったけど。
…ということで、届いていない友人の皆様には、ここで改めて申し上げます。
明けましておめでとうございます。
(…って、遅せえよ)

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2007年02月06日

●東京都美術館『オルセー美術館展-19世紀 芸術家たちの楽園』

真鍋かをりちゃんが「イイ!」と言うので、「高気圧酸素カプセル」なるものを体験してみた。
その設備は一見SFとかでお目にかかる「冬眠用の冷凍カプセル」である(実際、閉所恐怖症の人はお断りだそうな)。
で、まあ、1時間ほどカプセルに閉じこめられてみたのである。細かい酸素分子が毛細血管の隅々まで行き渡る由。
しかし術後は、正直なところ、そう大した効果は感じられないように思えた。
だがその数時間後、酒を飲みに行ったら、なんかかつて体験したことのない感覚。
寒い日に熱燗なんぞを啜ると「五臓六腑に染み渡る」と表現するが、五臓六腑どころか、指先爪先までアルコールの微粒子がサササーッと微細血流と共に流れていく・・・(気がする。)
う~ん、これはスゴイかもしんない。
今後、われわれオッサンの集まる飲み会では、
酸素カプセルで酸素補給→鍋or焼肉で腹ごしらえ→スパ(温泉)で腹ごなし→バーとか居酒屋でゆったり飲む
というコースを推奨しよう。
ただし、これだと時間的に翌朝まで飲み続けるハメになるわけだが。

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2007年01月26日

●周防正行『それでもボクはやってない』

実家が田舎の素封家で、一流企業のサラリーマンで、おまけに顔が美形なオトコが仲間ちゃんに甘えかかっているのを見ているだけで、なんだか腹が立ってくるので、毎回20分くらい視聴したところで耐えられなくなってしまうのですよ>「エラいところに嫁いでしまった!」
それより「ヒミツの花園」の寺島進と真矢みきの恋?の行方のほうが感情移入できるのは、もちろん年齢のせいだ。
なんか釈由美子ちゃんが夕刊紙であることないこといろいろ書かれたらしいけど、例え顔面整形してたって全然いいじゃん。
というか、日本女性にはすべからく整形治療費を政府が保証してやりゃいいじゃん、くらいに思うのだ。
なんせ「美しい国」なんだから。
ていうか、いっそ外科的整形でなく、遺伝子レベルの整形で全員が「美人」な世の中になったら、たぶんとっても楽しい。
「美」であることが平凡化したら、「美」という概念そのものに意味がなくなってしまう訳で、もし「美」が存在しない世の中になったら、それはそれで間違いなく人類の精神的な進歩である。

(以下ネタバレあり。注意)

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2007年01月17日

●蓮實重彦『表象の奈落-フィクションと思考の動体視力』

年末のある日、不意にこれまで体験したことのない、踞るような胸痛に襲われた。
その時、ピーンと頭に浮かんだのが「心筋梗塞?」という文字だった。
以来、妙に胸のあたりが息苦しい感じに取り憑かれて仕方ない。
不安なので、とうとう明日、人間ドッグで検査を受けることにしたのだ。
フリーランスも同様の零細企業の経営者の境涯なんて、長い入院でもしようものなら、わりとあっという間に「ワーキングプア」、いやたんなる「プア」に転落である。
気のせいだといいんだけど、でも今年は厄年で、どの雑誌の占いを読んでも、今年は運勢サイアクらしいのである・・・。

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2007年01月10日

●宮沢章夫『東京大学「80年代地下文化論」講義』

にょにょのために昨年末からいろいろ準備してきた気がするのだけど、年始に「特命係長只野仁祭り」をコンプリートしてしまってからは、何だかすべてがどーでもよくなってしまったのだ。
あと衝撃だったのは、中田有紀おねーさまが目当てで見た教育テレビの「ジュークボックス英会話」に登場していた佐藤良明氏が、「さんまのからくりTV」に出てくるホネホネロックの人そっくりだったことくらいである。以上、正月日記終わり。
以下、感想文。

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2007年01月01日

●謹賀新年

2001年12月30日、ボクたちが初代「退屈帝国」を立ち上げたのは、ちょうど「9・11」の衝撃の最中の時期でしたが、今回の「退屈帝国neo2」は、まるでフセイン元大統領の死刑執行に時を合わせて再開された(まだβ版ですが)かのようです。
(しかし、執行時のあのような映像が平然と出回ること自体、この裁判と判決の正当性を疑わせる――私刑にすぎない――証拠に思える)

今後も、日々の雑感やら、本や映画やサッカーについての感想をだらだらと書き綴る、「メンバー自身のための逃避行的オアシス」というスタンスは変わらず運営していきますので、大した期待をせず、忘れた頃に眺めていただけると嬉しいです。
本年もよろしくお願いします。