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2018年06月23日

●「子午線 原理・形態・批評 Vol.6」刊行

私も同人として参加している「子午線 原理・形態・批評 Vol.6」http://shoshi-shigosen.co.jp/books/shigosen6/(書肆子午線)が刊行されました。「2017年の放浪者(トランプス)」というエッセイを寄稿しています。

たまたま刊行と重なって、渡部直己氏のセクハラ事件が公になり、大きな問題になっています。事件を利用した宣伝と思われるのは心外なのですが、私のエッセイの内容ともかかわるので、一言だけこの場に記しておきます。
報道によれば、氏の行為は大学教師のセクハラとしてあまりにも典型的で、弁護の余地はまったくありません。組織ぐるみでセクハラの隠ぺいにかかわった疑いもでているので事態は深刻だと思います。私自身は早稲田大学はおろか大学院という組織に学生としても教師としてもかかわりを持ったことがなく、そこでのセクハラの実態がどのようなものか、噂以上のことはほとんど知りません。渡部氏には単著の帯文を寄せていただいたとはいえ、それ以外では読書会に「日本小説技術史」の著者として一度お招きしたこと、何度か酒の席で話した程度の面識しかなく、この取り返しのつかないバカげた事件について怒りは覚えるものの、なにか具体的な提起をできるような資格は私にはありません。ただ氏が被害者に謝罪し相応の罰を受けることはもちろん、早稲田大学が事の経緯を早急に明らかにすることは当然だと思います。
私が自問自答せざるをえないのは、氏の行為が彼の文芸評論と切り離して論じられるべきか、という問題です。これには慎重な検討が必要であり、ここで十分に論じる用意はありません。もちろん文学と現実を混同するなど論外という意見もあるでしょうが、そもそも彼自身が被害者の文学的才能云々を口実にしている以上、むしろ氏にとってこそ両者に何らかの積極的な関係があったと考えるべきでしょう。そしてその振る舞いはあまりにも「日本近代文学」にそっくりであり、氏の年来の文学的姿勢を自ら裏切っていると言うしかありません。
私のエッセイの観点から分析するなら、そこで論じている「力学的崇高」とセクハラは、どちらも「主体の幻想」を対象に投影している(後者の場合は男性大学教員が若い女性の学生に対して)という点で同じ構造をもっているように思われます。しかし「力学的崇高」の「主体」はあくまでも無力にとどまるのに対して(それこそ「蒲団」の竹中時雄のように)、大学教員は学生に対して圧倒的な権力を行使しうる立場です。率直に言って私は渡部氏の著作に対して(初期の泉鏡花論以外は)つねに疑念を抱いてきましたが、とりわけその「小説技術」論については「主体」(この場合は作家)の全能が前提とされた議論であるように思えます。それは実際には「テクスト論」どころかサルトルのモーリャック批判以前というしかないのではないでしょうか。そして渡部氏が文芸批評家としては「テクスト」を見渡す全能者として振る舞っていたように、学生に対しても振る舞っていたのではないか、という疑念を抱いています。要するにそれは、どれほど近代的な意匠をまとっていたとしても、近代以前の価値観を回帰させた反動というしかありません。渡部氏の言説が彼の教師という立場を離れて成立しているのか、今となっては疑問です。氏の言説のマッチョ性が文学の問題として批判されてこなかったことこそ、この事件の遠因かもしれないのです。
以上はあくまで推測にすぎませんが、私がこの問題をたんなるセクハラとして片付けるべきではなく、とりわけ90年代以降の渡部氏の批評の「変質」(と私は思うのですが)まで視野に入れて論じられるべきだと思っています。