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2017年10月08日

●ギャロウェイと原子力

*以下に記すのは、私が参加している読書会(通称すがゼミ)で昨日取り上げられたアレクサンダー・R・ギャロウェイ『プロトコル—脱中心化以後のコントロールはいかに作動するか』(北野圭介訳、人文書院、2017年)についての私的メモです。レジュメと発表を担当された吉川浩満さんのお薦めで記録に残しておくことにしました。口頭での発言とほぼ同一の主旨ですが、言い足りなかった部分を補足してありますので、参加者の皆様にもご覧いただけましたら幸いです。

 インターネットとはギャロウェイの—ことによると私たち自身の—「幻想」にすぎないのではないだろうか。むろんインターネットが実在しないのではない。それが何物か—たとえばジジェクのいう「モノ」—を覆い隠すヴェールとして機能しているという意味である。『プロトコル』第一章は次のような言明で始まる。「多くの論者がインターネットの起源について議論しているが、核攻撃に抵抗するためにインターネットなるものがさまざまな方面の努力において作り上げられてきたということはたしかなことである」。だが、それが「たしかなことである」かはきわめて疑わしい(村井純は「誤って伝わった」「伝説」だと一蹴している)。ギャロウェイは続けて記している、「核攻撃のことを、知られうるかぎりでもっとも高度なエネルギーをもち、権勢を誇り、中心化された軍事力であると考えることができるなら—つまりは近代という時代の原型である—、〔大文字の〕ネットはそれゆえ、この強烈な物質的脅威への解決策であると同時に、それを反転させたものだということになる」。『プロトコル』は「近代」以降の社会システムのモデルとしてインターネットを理念化しようと試みている。すなわち「中心化」(君主=主権による中心的な管理)、「脱中心化」(監獄や工場における脱中心的な管理)という、おもにフーコーに依拠したモデルの次の時代区分を示唆する「分散的な制御=管理」をあらわすネットワークなのだと。だが、ギャロウェイがここで描くインターネットとは「核攻撃」を「反転」させた陰画にすぎない。インターネットは「近代」そのものに深く規定された、「モノ」としての「核攻撃」のヴェールとして機能する「フェティッシュ」なのではないだろうか。
 『プロトコル』がインターネットの物理的な側面から歴史的、理論的、実践的な側面にいたるまで広範な観点から論じていながら、そこに大きく欠落しているもの—それが「電力」という主題である。インターネットは電力なしでは作動しない。あまりにも日常的でありふれているが故に見落とされがちだが、実際には近未来のテクノロジーである「スマートグリッド」や電気自動車の実現に大きく関わっているのが「電源」問題なのは周知のことだろう。インターネットが稼働するのは、それが原子力・火力・水力・風力その他の既存の発電施設に全面的に依拠しているかぎりにおいてであり、つまり社会インフラとしてのインターネットが「分散的」どころか徹底して「中心化」された「近代」を一歩も踏み越えていないのは自明と思えるのだが、ただしここで批判したいのはそこではない。また「スマートグリッド」等の進展によって「中心化」されていた電力が「脱中心化」されるという議論もここではとりあげない(ギャロウェイの視点では「スマートグリッド」はいまだ「近代」にすぎないはずである)。むしろ興味深いのは、たとえば「ビットコイン」のような仮想通貨を維持・拡大するために必要な膨大な電力がかえってシステムの維持を困難にしてしまうという可能性である。要するに「ビットコイン」の取引に必要なマシンを稼働する電気代が「ビットコイン」の生産(「採掘」)する価値を超えてしまう可能性のことだが、ある試算によれば2020年までに必要な電力は14ギガワットに達し、それはオランダ1国内での消費電力量に匹敵するという。したがって「ビットコイン」を維持・拡大するためには(電気代を抑えるための)たえざるマシンの性能強化が必須なのだが、それとても世界中のコンピュータ関連企業の資本主義的な(つまりごくありふれた)技術競争に全面的に依拠せざるをえないのだから、「ビットコイン」ひいてはインターネットという「分散的なネットワーク」が「近代」を超克したものであるとは到底言い難いはずである。
 じつは『プロトコル』で「電力」に触れた箇所が(私が気づいたかぎり)ただ一つだけ存在する。マルクスの『資本論』にみられる「生命力主義」について論じた部分である。そこでギャロウェイはマルクスの「代謝的」と「有機的」という用語法にひとまず注目する。「代謝的」とは「技巧と資源とが(…)コンスタントに均衡関係を通じて更新される」関係をめぐる形容詞であり、労働力と自然における生産力に関わっている。一方「有機的」は「工場」の組織化されたシステムをさす場合に用いられる。しかしギャロウェイにとって「「代謝的」と「有機的」はさほど重要なものではない」。
 ギャロウェイが重視するのは、マルクスが隠喩として用いる「生命力をもつオブジェクト」(「花芯」「外殻」「胚種」「さなぎ」「蝶々」等々))である。マルクスは「資本」をあたかも「人工生命」であるかのように表現する(「資本主義を感性=美学化している」)のだ。そして「資本」が「人工生命」へと「変態」させるのが「フェティシズム」なのである。
 「電力」がここで直喩として登場する。「根本的にはその変態とは、あるタイプの想像的ないしは幻想的な再現=表象を介した形式の変態のことであり、それはたとえば、電力のためにもちいられる滝のようなものが、「現実の経済的な関係を隠蔽する不合理な表現」を介したときにしか、「価格」をもつことができないといったものである」(強調引用者)。マルクスの「変態」とはG-W-Gという商品と貨幣の転化のことであり、ギャロウェイはこの「変態」における「フェティシズム」の必然性を語っている。これがマルクスへの反・批判—批判の批判、つまりマルクスの批判対象への全肯定—でなくてなんだろうか。「商品のフェティシズムについての理論は、いかにして物質が命を帯びることができるのかを鮮明に示している」。
 ギャロウェイが「人工生命」を創発するという「感性=美学的なオブジェクト」とはおそらくマルクスのいう「変態」を実現させる函数のことである。インターネットはついに野蛮人の夢を実現したのだろうか。まさか。率直に言ってここまで楽天的かつ全面的な資本主義礼賛理論を私は他にあまり知らないのだが、だからこそ『プロトコル』にただ一度だけ登場する「電力」への言及(とすら正確にはいえない比喩)をあえて徴候的に読むことが必要なのだ。「たとえば、電力のためにもちいられる滝のようなもの」といういささか意味不明瞭な表現は、じつは比喩が二重に重なっている。この表現は明らかになにかを口籠っている。それはひとつには「商品フェティシズム」をまとう以前の生産物の比喩になっているが、なぜそこに「滝のようなもの」という、あきらかにヴェールを連想させる直喩(それは流れるエネルギーとしての電流の比喩なのか、電力を発電する水力発電所の仕組みを意味するのか?)をさらにまとわせるのか? ここで商品に「変態」する例としてなぜ「電力」が比喩として挙げられているのか? あるいはこの書物ではなぜ「電力」が比喩としてしか取り上げられないのか? 繰り返しになるが「電力」は比喩では決してなく、インターネットというシステムを成立させる物理的基盤そのもののはずである。この二重底の表現は「電力」を「滝」として比喩することで、かえって「電力」を発電する物理的なシステムを隠蔽してしまっている。つまりこれは「現実の経済的な関係を隠蔽する不合理な表現」そのものなのである。それはこの比喩自体が『プロトコル』という書物に対してメタ言説(自己言及)を形成していると同時に、フェティッシュとして機能しているということである。もしギャロウェイの議論を真に受けるとするならば、この言説そのものを「人工生命」として理解しなくてはならないはずだ。。
 ギャロウェイは「人工生命」が創発する前提として「フィードバック」、つまり「平衡、自己統御、循環性、そして制御」という観点による自己言及性を想定している。そのうえで「プロトコル」がウィーナーの「サイバネティクス」と「物質的なシステムにかんする自己決定論」つまり「人工生命」への可能性を共有していることを示唆する。サイバネティクスの誕生には(ここでも!)核が影を落としている。ギャロウェイはまたしてもこう記すのだ、「第二次世界大戦と原子爆弾の影のうちで書き進めながら、ウィーナーは深刻な懸念を露わにしている」。
 もはや明らかだと思うが、ギャロウェイの「人工生命」という観念が実際に意味しているのは原子力のことである。原子力発電とは「第二の自然」どころか「第二の太陽」であり、たんなる「代謝的」で「有機的」な「工場」と異なる、エネルギーを循環させ増殖させることで発電し続ける半永久的な自律機関である(ウランからプルトニウムを生成することにより、エネルギーを発電(消費)すればするほど増大する増殖炉=核燃料サイクルの夢)。ギャロウェイにとってのインターネットは原子力なしにはありえない。それは「核時代の想像力」(大江健三郎)の一つの典型的なフェティッシュ(対象a)であり、それ以上でもそれ以下でもない。私はかつて大江健三郎論(『錯乱の日本文学』所収の「大江健三郎の「塔」」)で『懐かしい年への手紙』以降の作品にみられる「第二の自然」と「生命力主義」を分析したことがあるが、小説家としての大江がギャロウェイのような凡庸な思想家とは比較を絶して偉大なのは、彼のフェティッシュがギャロウェイとは逆につねに原子力という形象を(隠蔽ではなく)露呈してしまう点にあることを証明したつもりである。
(強調引用者と書きながら強調するのを忘れていたので、強調追加しました。10/9 17:00)