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2017年10月04日

●追悼のために

本サイトの前身である「退屈帝国」の同人だったDamin氏(以下Dと記す)が、先月、ALSという病で亡くなった。以下はそれについて書く。Dのプライバシーにある程度踏み込む内容になるが、彼の近親者が全員すでに亡くなっており、その思い出を記録に残すために許していただきたい(内容は記憶違い等も含めてすべて私個人の見解に基づく)。

ALS(筋萎縮性側索硬化症)は「手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気(中略)その一方で、体の感覚、視力や聴力、内臓機能などはすべて保たれることが普通」といわれる(「難病情報センター」HPより)。全身の筋肉が侵され、やがて呼吸筋が動かなくなり、多くの場合は呼吸不全で死亡する。原因不明で治療法はなく、発病後2年から5年で死に至る場合が多いとされているが、人工呼吸器や胃ろうの装着によりさらに長らえる可能性も高い。
「ALSを発症し、現在ケアハウスで療養している」というD本人からのメールが私や共通の友人たちに届いたのは昨年8月初旬だった。私たちとDは若い頃は毎週のように遊び歩き、たびたび一緒に旅行に行っていた時期もあったが、40代を迎えて私たちがそれぞれ遅い結婚をしてからは互いに会うことも稀になっていた。最後に会ったのは一昨年の3月、仲間の一人が地方に転勤するのを機に開いた飲み会だった。なんだかずいぶんと痩せて白髪が増えたなあ、と感じたのを覚えている。D自身が症状(うまく話せない等)を自覚したのはそのすぐ後だったらしい。秋に確定診断が出て、Dは「延命はしません」とその場で宣言した。その意志はそれから最期まで揺らぐことは一度もなかった。Dの両親はすでに亡く、一人暮らしをしていたが、それも半年が限界だった。介護士をしている遠い親戚の手助けによって、その人の紹介でケアハウスに入居した。Dのメールはその報告だった。
私たちはすぐにDの見舞いに行き、彼の状態にショックを受けた(すでに杖なしで歩けず、言葉もままならなかった)が、その詳細は省く。私はALS関連の文献をいくつかあたってみたが、状況はまったく絶望的なようだった。病は不可逆的に進行していき、やがて呼吸が困難になる時点が訪れる。ここで患者には大きな決断が迫られる、つまり人工呼吸器を装着するか否か、である。装着を拒否すればたちまち呼吸不全による死が訪れるが、装着すれはひとまずその時点での死は回避できる。ただしその後は24時間の介護(痰の吸引も含む)が必要となり、一度装着したらたとえ本人が望もうと二度と外すことができない(外せば自殺幇助もしくは殺人である)。
ALSの患者は回復の可能性がないため、病院が受け入れてくれる可能性はほぼない(病院が受け入れるのは装着の拒否を約束した患者である)。従って介護は主に自宅で行われ、家族がその大きな部分を担うしかない(そのこと自体が不当であると思うが、とりあえずここでは問わない。追記)家族への過剰な負担は、時に家族を経済的社会的に、また感情的に破壊することさえありうる。人工呼吸器を装着した患者の死を一瞬でも願わなかった家族はないとさえ言われる。多くのALS患者(7割を超えるという)が人工呼吸器を拒否するのは、当然ながらこの事態を予期しているからである。それがこの病のもっとも恐ろしい一面である。患者は愛する者たちを苦しめたくないから、そしてかれらが最後には自分を憎むようになるのがわかっているから、延命を拒否するのだ。彼らの意思も感情も健常者と何ら変わるところはない。ただ彼らには自分の意思を伝える術がどんどん少なくなっていく。最後は瞳さえ動かすことのできない、完全な「閉じ込め」状態に至る場合もある。私たちには決して理解できない孤独と恐怖がそこにはあるにちがいない。
Dの場合、おそらくこの病について説明を受けた瞬間から、選択の余地はない、と感じられたに違いない。Dにはすでに家族がなかった。親身になってくれる親戚といっても、そんな負担をかけるつもりは初めからなかった。ぎりぎりまで生活の全てを一人でこなし、ケアハウスに転居したのもたまたまDを訪ねた親戚の一人が驚き、強引に手続きさせたのだった。
Dはさらに特異に困難な事情を抱えていた。Dは大学を卒業して出版社に就職し、雑誌編集者として働きはじめたその数年後に分裂病(現在の統合失調症)を発病し、それも完治していなかった。主な症状は幻聴で、もっとも重度の病状のときは10人ほどの人格がDの中で対話していたのだという。治療で症状は軽くなったが、編集の仕事を続けることはできず、編集部を離れ、それ以来四半世紀近く社内の校正室で勤務してきた。校正という仕事を貶めるつもりはない(私自身も校正者である)が、しかしDが望んでついた仕事でなかったのは確かだと思う。編集者だった頃は仕事の喜び苦しみをいろいろ聞かされたものだが、校正室に移ってからその業務の話をしたことは一度もなかった。薬を飲み続けることで症状は軽減したが、精神に影響を与える大きな出来事があると幻聴は再発した。近年ではDの母親の死がそうだった。ALSの発症はその直後だったから、おそらくDにはその懸念も重なっていたはずだ。もし「閉じ込め」られた状態で幻聴があらわれたらという恐怖…。
独身で家族がなく、統合失調症をかかえた状態でのALSという症例がDの他にあるのか、私は知らない。私はDに延命してほしいと密かに願っていたが、しかしこれでDに希望を捨てるな、というのも無責任だろう。私たちがDの症状を知ったときには、すでにDが覚悟を決めてから1年近く経っていた。見舞いの後、Dから私にメールが届いた。「スイスで安楽死を幇助する団体があるので調べてほしい」という内容だった。私は動揺したが、いくつかの団体のホームページを検索してみた。海外からの自殺志願者を受け入れる団体もあったが、医師の診断書をとり、スイスで数カ月にわたっての数度の面談(その間に自殺の意志に変更がないか確認する)が課せられていた。そもそも日本に自殺するための診断書を書いてくれる医師が存在するのだろうか?数カ月ごとの数度の面談というのも、Dにとっては経済的な余裕も時間的な猶予もないように思われた。何よりDがスイスに往復するのには介助者が必要となるが、一体その役目を誰が引き受けるのだ?そして最後はDの遺体を日本に持ち帰ってくる?もしそれが私ということになれば、到底受け入れがたい!しかしDは暗黙のうちに私に対してそれを期待しているのではないだろうか。私はDへの返信に「可能性はあるが、実行するのは難しい」と書いた。私は介助者が自殺幇助に問われる可能性を示唆したが、そう書けばDが必ず諦めることがわかっていたからだ。それはどう取り繕おうと卑劣さを帯びた拒絶の口実である。事実Dは納得したようだったが、同時にすべてに絶望したのかもしれない。自殺するという意志が人生の最後の希望となることは確かにありえる。しかし私はDを最後に裏切ったのだ。そしてそれがDが私に対して依頼した最後の事項となった。
Dの病状の進行は速やかだった。私たちは見舞いのたびに可能な限りDを車椅子に乗せて連れ出し、町を散策したり、カラオケに行ったり、親戚の勤める居酒屋で昔のようにばか騒ぎをしたりした。ケアハウスから病院に移送されてからも、車椅子をそのまま設置できる介護用のレンタカーで私たちとドライブし、海沿いのホテルで一泊したこともある。しかしそれが私たちとの最後の外出になった。数カ月で病状は目に見えて悪化していた。Dは私たちに対してはもちろん、親戚や日常の世話をしてくれる介護士、看護師らにも一言も弱音を吐いたことがなかった。ずっと以前、まだ分裂病も発症する前に若いDが「いずれ死ぬのは寂しいとは思うけど、怖いと感じたことはない」と言ったのを鮮明に覚えている。私は子供の頃からいずれ確実に訪れる死を恐れていたし、今でも大して変わらない。しかしDにとってそれは本音だったのだろう。Dはそもそも私たちに奇妙に感じられるほど物や人間関係について執着の薄い男だった。もしかしたらそれは生命力の欠如ではないかと思えるほどに。
最後の短い旅行のあと、Dはすぐにベッドから離れられなくなった。決断しなければならない時が近づいていた。もちろんDの決意は変わらないとはいえ、周囲にとっては別である。Dの意志を尊重して人工呼吸器は装着しないという同意はできていたが、もし間際の際に呼吸不全の苦痛に耐えられず、Dが「装着してくれ!」と懇願したらどうするのか?それまでの意志を尊重し、懇願を無視して死に至らしめるのか?法的にどう解釈されるのであれ、それはやはり「殺人」ではないか。もしそうなら、Dが親戚をはじめ周囲に迷惑をかけたくなくて死を希望したにせよ、逆にその希望がDのもっとも愛する人たちを「殺人」に追い詰めることになるのだ。もちろんDの願いによって人工呼吸器を装着したとして、では誰がどこでこの二つの重篤な病を抱えたDを死ぬまで介助できるというのか。
私たちはこの解けるあてのない懸念を互いに話し合ったりはしなかったが、共通に自問していた。Dはしかし、急変後も簡易な酸素吸入器と痛み止めの座薬を入れたのみで、点滴すら拒否し、みるみる衰弱していった。経口からはもはや水分すらほとんど摂れなかった。数日で死亡に至るだろうという医師の言葉どおり、Dは奇跡的に(と看護師が語ったが)ほとんど苦しみを示すことなく亡くなった。
Dの生を振り返ると、他人はおろか自分自身への執着のなさにおいて最後まで一貫していたことがわかる。それはまるで執着のなさに執着していたのかと疑いたくなるほどだが、やはりそうではなく、天性のものだったに違いない。ただし存在に対する無関心ともとれるDの性格は、日常の人間関係で決してプラスに働かないことも多かったのだが。
医師にALSを告知されたとき、Dはどう感じたのだろう。延命を望まないと即答したということから、ある程度覚悟していたとは想像できる。しかしDは「もう充分だ」とどこかで思ったのだろうか。それはかすかに怒りの混じった感情ではなかったか。どれほど悪辣な自己責任論を持ち出したとしても、二つの病についてDが一切責任のないことは明らかである。じつはDの父親は広島で原爆を被曝した被災者だった。父親が被爆者であることとDの二つの病に関連があるのかはむろんわからない(私は疑っている)。ほとんど生存の災厄と呼んでいいこれらの業苦を一身に浴びたDは、事実としてヨブに匹敵する苦しみを味わったのだ。Dには神を呪う権利が確実にあったはずである。Dの存在への執着の欠如は、私たちの生きる社会や存在そのものへの拒絶を帯びてはいなかっただろうか。これを仏教的なルサンチマンと呼んでも構わないが、しかしそれはしばしばニーチェを引き合いにだして語られるそれよりもずっと崇高な感情である。もしDに形而上学的な悪意が秘められていたとしたら、Dは私たちを試すように「生き延びたい」と言ったかもしれない。しかしDの拒絶はそんな悪意さえも放棄した、絶対的な非存在への意志だった。
「この世界は生きるに値しない」。おそらくそれがDの揺るがぬ結論だった。私はそれに反論するどんな言葉も持ち合わせていない。

(追記 ここでわずかに可能性として考えられるのは、もしDに家族がいたらどう状況はかわっていたか、という問いである。もしDに妻子がいたら装着を受け入れただろうか?等々。しかしなぜ生存をめぐって家族の有無がメルクマールとなるのか。そうした線引き自体がすでに「差別」に他ならない。そう認めた上でさらに仮定を積み重ねてみるが、おそらく家族とは一つの法的・経済的・社会的単位である人間集団であると同時に、そこに「人格」を認められる唯一のシステムであるという事情がそこに横たわっている。人工呼吸器を装着した身動きのとれぬ患者が自己の生命の維持を家族に全面的に委ねるのは、そこに「人格」を認めているからだ。人格とは、言い換えれば無限責任を伴う。職業(ボランティアも含む)としての介護は言ってみれば契約に基づく社会的な役割であり、その責任はあくまで有限のものである。万が一大きな災害が起きた場合、介護者が自分自身や家族の身の安全を優先して患者の介護を放棄しても責められることではないと感じられるのは、その責任の有限性に基づいている。責任とはここでは法的なものである以上に、患者に対する対面的な責務である。日本のALSをめぐる社会制度は、実質的に家族のいない患者を死に追いやることを容認しているし、むしろ積極的にかれらを殺害しているとさえいえる。しかも患者と周囲の相互の善意を利用して患者を死に追いやるのだ。家族という線引きは日本の社会だけに特有なのか、それともネオリベラリズム社会一般に見られる傾向なのか、その両方なのかはよくわからない。問題はむしろ、家族が無限責任を担うという私たちの「信仰」なのかもしれないのだ。だから家族に代わって「国家」や「教会」がこの無限責任を担いうる可能性も否定はしない。ただし今後、どのように制度が変化しても「差別」そのものは解消されないだろうと思われるのは、この無限責任のリミット(矛盾)に関わっている。)