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2012年09月06日

●『早稲田文学』に寄稿しました

明日発売(予定)の『早稲田文学5号』に「大江健三郎のふたつの「塔」―[連載]小説空間のモダニティ(3)」を寄稿しました。
(Amazonの「内容説明」には名前のっていませんが、たぶん掲載されていると思いますw)

先日、とある飲み会で東浩紀氏に近い若い人に「石川さんは大杉重男とならぶ文学ゾンビですね」なんぞと言われてしまったのだが、まあ事実上「最後の文芸評論家」といっていい大杉氏に並び称されるのは光栄であるにせよ、今イケイケのゲンロン人に「おまえはもう死んでいる」呼ばわりされるのはいささか心外である。
とはいうものの、今回の大江健三郎論は(ソローキンに倣えば)「宮沢賢治3号」や「ルソー5号」といった「文学クローン」について論じているのだから、「ゾンビ」と呼ばれるのもさほど的外れではないのかもしれない。
それどころか個人的には「生きててスミマセン」という存在論的に申し訳ない気配を漂わせている「ゾンビ」のほうに(「クローン」よりも)好感を覚えるのも確かである。
今回の執筆で示唆を与えてくれた池田雄一氏の「メガクリティック」にも触れられていたが、つまり「ゾンビ」とは「死んだ想像力」としての文学をどう考えるか、という問いなのだ。
で、タイトルだけ借用して直接引用しなかったベケットの「死せる想像力よ想像せよ」(「短編集」白水社所収)だが、そこに叙述される「円形建築」はどこか大江健三郎の描く「治療塔」を連想させるので、ここに挙げておく。

「そのうちに白一色のなかに真白な円丘のような建物が見えてくる。入り口はない、入りたまえ、寸法を測りなさい。直径八十センチ、床から丸天井の頂上までの距離もそれと同じ。直角に交差する二つの直径ABとCDが白い床を半円ABCとBDAに分割する。床に横たわって二つの白い人体が、それぞれ自分の半円のなかに。丸天井もそれから丸天井をささえる高さ四十センチの丸い壁も白。外へ出て見てごらん、いっさい装飾なしの円形建築、白一色のなかで真白の、もう一度お入りなさい、たたいてごらん、どこもかしこも中味がいっぱいで固いもんだ、こつこつと鳴るその音はまるで想像のなかで骨が鳴っているようだ。光源の見えない、すべてを真白にするこの光を受けてすべてがむらなく真白に輝く、床、壁、丸天井、人体、どこに影はない。温度は高い、表面はどこもさわると熱い、火傷するほどではないが、人体は汗びっしょり。」

ところで東日本大震災の時でもそうだったけど、現実に大きな災害が起きるたびに「文学は現実に超えられた」だの「想像力は現実を超克できるか」といった議論が文学業界で沸き起こるみたいなのだが、しかし「文学=想像力」という図式で語られるようになったのは、いったいいつからなのだろう?
どうもボクの直感では、やはりサルトルの「飢えた子どもの前で文学は無力か」という提起とか、日本では大江健三郎や江藤淳という学生作家の登場以来ではないか、という気がする。
つまり、それは(日本近代文学のパースペクティブでは)「戦争」や「戦場」を(直接)知らない世代の最初の自己主張だったのではないのだろうか(というか、この点についてちゃんと文献を調べた研究があったら教えてほしい)。
どうのこうの言っても、現在の気鋭の若手作家や評論家連中はこのふたりの創出したパラダイムの中でしかものを考えていないし、おそらくその事実にさえ無自覚なのだろう。
しかし、この「想像力vs現実」という手あかのついた図式そのものがとっくに無効であると思うのだが、なぜかいまだに老いも若きも「文学の擁護」を語るとかならずこの図式が持ち出してくる、という事態に対してなぜこうも恥ずかしげもないのだろうか、「文学者」という連中は。