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2012年08月27日

●「ユリイカ・特集 岩井俊二」に寄稿しました。

「ユリイカ」9月号に「アイドルという空虚 『undo』と一九九〇年代」というエッセイを寄稿しました。

ところでボクはこれまで個々の作品論をほとんど書いたことがない。
作品の善し悪しや作家の好き嫌い――つまり「良いインディアンと悪いインディアン」(友敵)に分割する政治=批評――というのは今ではネットをみればいくらでもあがっているし、今さらそうした論評が「批評」になるとも思えないのだ。
今回の「undo」論も作品論というよりは、90年代という映画史の状況を考えるうえでのクライテリアとして岩井俊二を論じてみたのだった。
要するにそこで取り上げる作家や作品はひとつの尺度のようなものであり、それに対して―たとえばメートル法や太陽暦について善し悪しを申し立てても仕方がないではないか。
とはいえボクの論考は映画における歴史、というか「歴史」の破片であり、せいぜいのところ「正史」に対する異なるパースペクティブといったものにすぎないのだろう。
それはきわめて個人的な体験に基づく一般性を欠いた尺度であるともいえる。
実際、ここでも岩井俊二という尺度の中に相米慎二の「お引越し」を90年代の邦画のある消失点として論じているのは、当時のボクの個人的な映画体験に基づいているのは確かだ。
だが、ボクがつねに考えてきたのは、そうしたエッセイ(試み)はSFによくあるような、タイムマシンで過去を改変するという行為に似ている、ということだった。
歴史的なパースペクティブに変更を加えることで現在に影響を与えようとする、そうした「批評」。
それはゴダールの「映画史」から学んだささやかな「フィクション」としての批評の方法である。