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2012年06月14日

●住宅哲学9 「明るい部屋」

いよいよ基本設計が完了。当初想像していたよりも、ずっと幸福な明るい光の溢れた家になりそうです。ぼくらの幾多の無茶なお願いを平然と聞き入れて、さらに良い家にしてくれたKさんに感謝多謝深謝!

しか~し!! すでにスケジュールは押せおせなので、すぐに本格的に実施設計に入ることになる。住宅の細部を詰めていくうえで、Kさんおよび事務所の皆さんにはこれからもさらにご苦労をおかけすることになるけど、どうかよろしくお願いします。

ところで今、必要があってたまたまアドルノの「ミニマ・モラリア」を読み返しているのだけれど、そこでアドルノが「昔風の住居」(ビーダーマイヤー風ということ?)について、「そこに見られる快適の趣はことごとく認識への裏切りにによって贖われたものであり、無事平穏の気配には家族という利益共同体にまつわる黴臭さがすみずみまでしみ透っている」と記している。

まあ、いつものアドルノ節というべき一節なんだけど、じつはそこには「いちばんひどい状態に置かれているのは選択の余地をもたない人たちである。彼らは悪くすればスラム、よく行ってバンガロー風の安普請の家に住んでいるのだが、明日知れぬ身空には、いつそれが、掘立小屋や、トレーラーや、中古自動車や、キャンプ生活や、青天井の下での生活になり変わるとも限らない。ともかく家というのは過去のものになってしまった」という、ほとんど今日の日本でも通用しそうな――これが書かれたのは1944年頃だが――現実が背景にある。

(しかもアドルノは「時がたってみればウィーン・アトリエ派とバウハウスの間に大きな相違は認められない。純然たる機能主義をめざした曲線はいつしか機能を離れて独立し、いまでは装飾めいたものとして用いられるようになっている」と、ほとんどレイナー・バンハムを先取りしているようなことも書いていて、ちょっとびっくりする)

実際、「快適さ」にまつわる罪意識というのは、だから「のりたまハウス」にとっても無縁ではないはずで、たしかに「明日知れぬ身空」にすぎないぼくらには「平穏無事の気配」というのはかけらもない。先日のNHK特集で今日明日にも富士山が爆発してもおかしくない、というような番組をやっていたけど、現実にそんなことが起きたら「東京大空襲」以上の大惨事になる。幸福という感情は、もはや未来への単なる希望にすぎないのかもしれない。

とはいえ、だからといって幸福を断罪し「青天井」生活の悲惨をそのまま肯定するのは、「結局所有関係の盲目的な存続にプラスする依存と困窮の状態に自ら陥る」だけなのだ。
「社会全体が狂っているときに正しい生活というのもはあり得ない」としても、それでもポジティブななにかを提起する必要にぼくらは迫られている、その切迫が不幸以外のなにものでもないにもかかわらず。