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2012年06月14日

●住宅哲学9 「明るい部屋」

いよいよ基本設計が完了。当初想像していたよりも、ずっと幸福な明るい光の溢れた家になりそうです。ぼくらの幾多の無茶なお願いを平然と聞き入れて、さらに良い家にしてくれたKさんに感謝多謝深謝!

しか~し!! すでにスケジュールは押せおせなので、すぐに本格的に実施設計に入ることになる。住宅の細部を詰めていくうえで、Kさんおよび事務所の皆さんにはこれからもさらにご苦労をおかけすることになるけど、どうかよろしくお願いします。

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2012年06月04日

●住宅哲学8 「親密さ」としての住宅 

わすれもしない、市の外れの、
小さく静かな、私たちの家。
石膏のポモナの像と、古いヴィーナスは、
貧弱な木叢に裸の手足をかくし、
夕べには、光りかがやく壮麗な太陽が、
光の束の砕け散るガラス窓ごし、
物珍し顔の空に見ひらかれた大きな目玉さながら、
私たちのゆっくりと食べている夕食を、眺めているかのようだった、
質素な食卓布や、サージのカーテンの上に、
大蠟燭さながらの美しい反映をいっぱいに撒きひろげて。
(ボードレール『悪の華』、無題、阿部良雄訳)

光の満ちたこの美しい白い家は、もちろん19世紀なかばフランスの民家(詩人じしんの思い出)をモデルにしているはずだが、しかしぼくにとってはもはや20世紀モダニズムの住宅に感じられる美と郷愁をあらわしているようにも思われる。
太陽はいうまでもなくもはや失われた「父性」の象徴なのだろう。
そして「質素な食卓布や、サージのカーテン」はJ・フォードの映画の「エプロン」(蓮實重彦)のようなありとあらゆる受容性としての「白」であって、そこには登場人物は誰ひとり存在していないにもかかわらず、言葉の真の意味での「幸福」な家族の肖像が確固として現前しているのだ。
しかも興味深いのは「石膏のポモナの像と、古いヴィーナス」の隠された「裸の手足」で、それはある意味でそうしたブルジョワ的な家庭から排除された「性」そのものであり、詩人はそのことからもけっして目をそらしてはいない。
だからこそ、この詩は「およそありとあらゆる限りの最も美しい詩のひとつ」(イヴ・ボヌフォワ)たりえているのだ。

ここでミースの「バルセロナ・パヴィリオン」を思い起こすのは唐突にすぎるだろうか?
この建築物が「光の束の砕け散るガラス」の神殿であることは今更語るまでもないだろうが、しかしそこにもまたゲオルグ・コルベの「朝」と題された古典主義的な女性像が佇んでいるからだ。
「バルセロナ・パヴィリオンの光のなかに立ちつくしつづけるコルベの彫像《朝》は、ミースの建築という「独身者の機械」がその空間内に抱え込んだ身体=女性の痕跡である」(田中純)。
痕跡は不在の徴なのではなく、あくまでも「隠されてある」にすぎない。モダニズム的=男性的な論理にとっては「汚れ」でしかないが、しかしその建築物を統御する主体の視線の暗点として避けることのできない「染み」のようなものである。
それはフロイト的な意味での不気味さ=親密さにほかならない。
ボードレールやミースの美に虚偽がないのは、Das Unheimlicheを「不在」として隠蔽しようとせず、むしろ詩的論理の矛盾を矛盾として露呈させているからなのである。