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2012年04月03日

●住宅哲学7 「例外状態」としての基本設計

施主が建築家と取り結ぶ関係というのはどういったものだろうか。
建築家とは建築の専門家だが、専門家というのはそれぞれの専門的な言語体系を身につけた者という意味であろう。
弁護士なら法という言語体系を、医者なら医学という言語体系を共有するように、建築家は広義の建築言語を共有する専門家集団の一員である。
彼らは(顧客であり素人である)僕らの行為や意思を専門的な言語体系に置換する。
弁護士ならばそれを法言語に「翻訳」(代行=表象)するし、医者は我々の身体の症候を医学言語として「解釈」する。
しかし建築家がおもに行う仕事は、それらともどこか異なっているように思われる。

たしかに建築家は私たちの(住宅を建てたいという)欲望を「設計」を通じて専門家集団(施工業者)に「翻訳」するのだが、しかし建築家の役割はそれだけではない。「設計」は僕らの欲望を透明に表象するのではなく、そこに建築家自身の「欲望」を介入させることをこそ期待されているからだ。
また、建築家は医者が病人の「身体」を診断するように施主の選んだ「土地」の特性を分析し、その場所にふさわしい解法を導く。しかし医者が症候の原因を特定して、それを治療することで「症候」を解消させるのだとすれば、建築家はそれを「幻想」として実現(現実化)するのだ。
これはじつは精神分析における分析家と「分析主体」(分析される側)との関係に似ていないだろうか。じじつ、僕らの「家を建てたい」という欲望は3.11に起因する症候だったのであり、僕らがKさんにそれを訴えることで、期せずして分析家としての役割を依頼していることになるのではないか。
フロイトのWo Es war,soll Ich werdenという有名な言葉は、かつては「自我はエスを追い出さなければならない」という治療的な観点から理解されていた。
しかしラカンのように「エスのあったところに自我を生成させよ」と理解するならば、これはそのまま建築家のマクシムであるようにも思える。

設計のプロセスは、設計の基本的な方向性を決める「基本設計」と、実際に施工するために必要な設計図書を作成する「実施設計」とにわかれる。後者には施主が関わる場面はほとんどない(と思う)が、前者には施主の意向が大きく反映される。芸術家個人の孤独な表現だった近代芸術と比べて、ここが大きく異なるということは以前書いた。

別の観点からすれば、「基本設計」の段階での建築家と施主との関係は「議会」と「大統領」の関係に似ているようにも思える。カール・シュミットは「主権者」を「例外状態において決定を下す者」と定義したのだが、「基本設計」とは要するに「例外状態」なのであり、そこにおいて最終的な決定を下すのは施主の側である。建築家からみれば、近代的な個人芸術としての「建築」は施主に主権(決定権)を剥奪される以前に段階にしか存在しない。つまり無限に続くスタディとしての「アンビルト」にこそ「建築」の本質があるという考察はここから生じる。
逆にいえば、実際に施工された建築物は「建築」の廃墟に過ぎないという磯崎新のような思考は、潜在的に切断=決定をめぐるファシズムへの媚態を秘めているのだ。

(ちなみに建築家は—特にマスメディアに対しては—しばしば施主という存在=問題を単なる与件(与えられた条件、データ)として矮小化した議論しかしない。そうした業界向けの論議の典型として、最近ではたとえば「10+1」掲載の論考「2000年以降のスタディ、または設計における他者性の発露の行方」を読んだ。僕はこの種の「アート」っぽい抽象的な「他者」を振り回す論理には、正直もうウンザリしている。というか、隈研吾が経済誌web(笑)で語っていたように、これはきっと「ビルバオ」以降に顕著な「ギャラリー」に同伴した錬金術の論理なのだ)