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2012年03月19日

●住宅哲学6 制作物としての住宅

前回「住宅」は「建築」でも「インフラ」でもない、と書いた。住宅は「小説」と同じく、近代に誕生した「雑」=多声的な生産物なのだ。にもかかわらず、それは他の作品/製品に比較して特異ななにかである。
今回は視点を変えて、制作物としての住宅について考えてみよう。

小説や絵画の場合、制作物に対して制作者が存在する。小説家であり、画家である。
彼らは個人で制作するか、制作過程を統括する立場(工房のマスター)にあるのだが、それが可能なのは「書く」「描く」と同時に「読む」「見る」という作業を行うからである。小説家は「書き手」と「読み手」という二つの人格を統合した存在なのだ。画家の場合も同様である(「描き手」であると同時に「観客」)。
彼らの視点=人格が「生産」と「消費」の場を同時に占めることで、制作物に全体的で超越的な視点を与えることができる。個人の「作品」としての近代絵画は遠近法とともに誕生したのだが、ベラスケスの「侍女たち」にみられるように、そうした消費=生産の場の表象として遠近法の「消失点」を設定したことを意味している。

映画や音楽の場合はどうだろうか。
映画監督の仕事とは、あるいはオーケストラの指揮者の仕事は「指示する」ことだが、それは「見る」「聴く」という行為を前提としている。彼らはじつは生産行為に直接には関わっているのではない。ふつうの意味で映画を「生産」するのは「俳優」であり、「美術」「音楽」等のスタッフであり、制作過程(工程)を統括する「プロデューサー」であって、極言すれば「監督」なしでも映画制作は可能である。監督の仕事とは、要するに彼らの生産行為を見ていることである。プロのオケは指揮者なしでも演奏できる。
にもかかわらず、映画監督や指揮者という視点(人格)が制作の過程で要請されるのは、生産に関わる複数の視点を繰り込んで一つの作品に定着させる全体的で超越的な視点(人格)を設定する必要があるからだ。だから監督や指揮者はほとんど「消費者」だともいえるのであり、「消費者」を工程に繰り込むことで空間的・時間的な統一性を制作物に与えることが可能になるのである。
もちろんそうした超越性に対する批判的な動きが見られたのが20世紀後半である。
ジャズのインプロビゼーションは、それぞれの演奏者が同時に聴き手であるという複数の超越性を有する。しかしそれはあくまで全体性そのものの複数性であり、作品を担保する超越性は温存されている。
かつてテキスト論や記号論者で一世風靡した「間テキスト性」や「開かれた作品」は、ここでは「作者」の「消費者」としての側面を論じているとみなすことができる。「作品」は最初から「開かれ」ているのだから、「開かれた作品」はほとんど同義反復である。この種の議論の歴史的な限界は、「作者の死」という概念の射程が結局近代的な生産=消費の回路に内属している点にあったはずだ。

大量生産される工業製品はどうか。この場合はモニタリングなどのフィードバックによって総体として疑似的に消費的な視点を取り込んでいる。逆にいえば、それは「疑似的」であるから「作品」たりえないのだ。工業製品は(たとえ小ロット、一品制作であっても)制作者=消費者という自律的=創造的な回路を持たないからこそ、近代的な「作品」概念に含みえないのである。

これらの制作物と比較して、やはり「住宅」が特異だと思われるのは、そうした全体的で超越的な視点(人格)が想定できない、という点にある。なぜか。

・住宅は工業製品である
住宅は工場(複数の工程)で製造される工業製品と似た性格を持つ。ハウスメーカーが手掛ける住宅はほぼそうしたものである。にもかかわらず住宅は基本的に大量生産(複製)がきかない(建設される土地の条件が異なる)から、モニタリングという手法を工程に織り込むのは限界がある。当たり前のことだが、制作中は施主も含めまだ誰もその住宅に住んだ経験のある人がいないのだ。

・多用途・多目的な作品である
これは自動車のような一般人が購入できる高額な製品に比べてもそうだし、公共建築や商業ビルのような他の建築物に比べてもそうである。どれほど小さくとも住宅=生活の器であり、生活は一つの用途や目的に収斂できない。逆にいうと、公共建築でも多目的ホールや多目的競技場が演奏者や観衆にしばしば評判が悪いのは、一つの建築物が多用途性を消化しきれないからである。

・消費の形態の特異さ
もちろん建築家は工程の大部分を統括するが、しかし彼らは「消費者」ではない。それは住宅の「消費」期間が数十年というレンジを持つからである。もちろん建築家はその未来の時間を自身の職能的経験から仮想的に織り込むのだが、それにしてもやはり想像的なものにすぎない。
住宅の「消費者」はいうまでもなく住人=施主なのだが、施主は工程管理を建築家に委任することで主体的に工程にかかわることはない(例外は「大草原の小さな家」のお父さんのように自分で家を建てる場合=建築家の自邸である)。

つまり「住宅」はそれに対する全体的で超越的な視点が原理的に存在しえないという、近代の製品=作品としてきわめて特異な位置を占めるのだ。