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2012年03月14日

●住宅哲学5 なぜ「住宅」で「哲学」なのか?

ところで、なぜ「住宅」で、なぜ「哲学」なのだろうか。

という問いの前に念のため断わっておくが、この文章は「建築哲学」ではない。
建築に関する哲学とは建築の本質への問いであって、そうしたことは建築家や建築界――建築する人たち――が考えるべきことだし、実際考えているのだろう。

だったら「住宅哲学」とは住宅の本質について考えることで、それは住宅に住む人――つまり僕自身――が考えなくてはならない、と思うのである。たとえば毎朝何を食べるのか(あるいは食べないのか)を考えるのが、当人の「健康哲学」であるのと同じように。
じゃあ住人にとって住宅の本質って何なんだ?

一般的に住人が住宅をどう考えているのか。「普通」の人びとがどういう基準で住宅を建てる(選ぶ)か、ということから想像するに、まずはガス・上下水道・電気・電話などといったインフラのみならず、交通の便や耐震性などを基準にするなら、それはほとんどインフラの条件である。建築的な観点というのは、せいぜい日当たりとか間取りといった条件だろう。
つまり住宅はインフラであり、同時に建築でもある。
たぶん建築的な要素が強いのが一軒家だろうし、住人の意識の中でほとんどインフラの端末にすぎないのが賃貸アパートの部屋だろう。
「住宅哲学」は住宅の本質を考えるというよりも、建築とインフラの狭間でもがいている自分自身について考えることである。

ふつう「建築」architectureに対して、社会基盤の整備を目的とするインフラ工事のことを「土木」civil engineeringという。ちなみに工事のことを大昔は「普請」といって、落語の「牛ほめ」は「普請道楽」の親戚を父親がアホの子の与太郎にどうにか誉めさせようという演目である。
土木と建築が分離するのは近代以降だから、僕らが考える「住宅」も当然この分離を前提としている。
土木のcivilからもわかるように、それはじつは市民の「一般意志」のようなものを前提としている。前に集合住宅を「インフラに近い」と書いたけど、近代の集合住宅は都市の社会基盤の整備のためにつくられたのだ。つまり集合住宅には市民の合意が前提とされており、僕らはそれをすでに承認しているということになっている。
そのような考え方からすれば、集合住宅は本来なら市民の公共財産のはずであり、僕ら住人(所有者)は一時その一部を私有(占有)しているにすぎない。
そうした市民の「共同体」のあり様(集合住宅の住民たちの共同体ではない)を肯定して、集合住宅ははじめて意味のある「建築物」となりうるのだ。
それは集合住宅に限らず、住宅の集合としての町並みも同じである。
欧米の都市にしばしば見られる美しい町並みは市民の「共同体」の表現であり、日本の雑然として醜悪な(といわれる)街並みはそうした「共同体」の意志の不在のあらわれである。

ところで、もし安藤忠雄と地元の無名の工務店とが、それぞれまったく同じ材料で、まったく同じ延床面積の住宅を同時に近所に建てたとしたら、その評価額はどのくらい異なるのだろうか。
たぶん銀行による査定では、どちらもそう大して変わらないんじゃないか、と思う。少なくとも安藤の住宅が無名氏のそれより100倍も高い、というような評価価格は想像できない。
これは絵画とかファッションとか広告コピーとかが、制作者の名前の有無によって天と地ほどにも値段に差が出る、という業界とまったく違うのである。
むしろ古井由吉の本の値段と、ポッと出の若手作家の本の値段にほとんど変わるところがない、というのにちょっと似ている。
もちろんそれぞれの価格が違う事情は様々なのだが、いずれにせよ「建築」や「文学」の固有の価値というのは社会的評価にほとんど関わりがない、ということは明らかである。
確かにそれらの作品は建築家や小説家の表現者としての個性の表出ではある。
しかし、社会的価値としてそれは「無に等しい」のだ。
たぶんその評価で価格に関わるのは、もっぱら住宅のインフラ的な側面に対してのみである。
だから建築家は建物の専門家として奉られても、彼らが都市計画や景観に関わることはほとんどない。
丹下健三が戦後の東京の都市計画に或る程度の影響を与えることができたとしたら、それは建築家というよりもむしろリサーチャーという役割としてである。
僕ら住人が「住宅」を都市の一部分として考えるとしたら、それを「建築と見なすことがない」のはある意味では当然なのだ。
逆に建築が社会的に無に等しいからこそ、僕らは建築の総和としての都市についてあれほど醜悪な景観を許しているともいえるのだが。

では住宅は十全にインフラなのか、というともちろんそれも異なるのである。
インフラが「一般意志」の表現だとしたら、日本の社会にはそもそも市民の「一般意志」なるものが存在しないのだから、インフラもまた存在しないということになる。
じじつ、3.11「フクシマ」以降明らかになったように、電力会社は電力&設備を自社の財産としか考えていない(東電の社長は「値上げはわが社の権利である」とのたまわった)。
それは実際には住宅を社会基盤の一部ではなくたんなる私有財産としか思っていない僕らの意識と、まったく同じ構造のもとにある。

つまり僕らの「住宅」は「インフラ」でもなく「建築」でもない。
じゃあ「住宅」って何なんだ、僕らはいったい何をつくろうとしているのか?
まあ、そういうことを考えようと思うのだ、この「住宅哲学」では。