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2012年03月12日

●住宅哲学4 集合住宅は建築か

 中沢新一・伊東豊雄「建築の大転換」(筑摩書房)を読んだ。中沢についてはここで何度か論じたので触れない。伊東は中沢をブレーンにしているようだが、伊東が依拠するこの種の「反近代主義」の胡乱さは、その主張が都市にそのまま適用可能かどうか考えてみるとわかる。

おそらく伊東は、現在東北で試みているような建築を、彼自身の生活する東京やバルセロナに適用してみようとは考えないだろう。

「近代主義に基づく都市の均質空間は、経済性もあるし、高層化も容易ですし、人間の世界にさまざまな恩恵を与えてくれました。そのこと自体を否定するつもりはありません。しかし、一方で、近代主義的均質化によって人間がかなりスポイルされているという事実が間違いなく存在していて、「そうではない方向の建築もあり得る」という思いをずっと抱いていました。東北という、共同体=社会が息づいている地域での復興計画に携わりながら、私はあらためて近代主義に基づく建築から大転換して、本来建築家のとるべき姿勢で、社会とかかわる建築に取り組んでいくのだという思いを新たにしています。」(「建築の大転換」)

こうした文章が決定的にダメだと思うのは、近代の矛盾に自らが引き裂かれるのではなく、逆に矛盾によって自己の活動の正当性を担保しうると確信する姿勢にある。坂本龍一が脱原発を訴えながら日産の電気自動車のCMに出演するようなものである。都市のテクノクラートが示す機会主義とご都合主義の典型というしかない。平たくいいかえれば、田舎には田舎らしい生活があるでしょ、俺ら都会人は今のまま進んでいくけどね、という意味である。

中沢=伊東の思想というのは、要は東北を新たな「第三世界」に措定することにあり、その論理はそこを都市から分離独立させるように動くしかないだろう。しかし単にそれだけでは都市圏と地方との格差、あるいは日本を含む先進国とそれ以外の世界との間に働く経済的・政治的な収奪の力学を温存することにしかならない。

もし「反近代」なるものを本当に実現するつもりなら、方途としてはおそらく大都市が自らをすすんで解体してみせるか、都市という概念そのものを変えてしまうしかないはずだ。

伊東がそこまで本気だというなら、とりあえず今すぐにでも釜石に住居と事務所を移転して、そこでも仕事を同じように続けるのが可能だと証明してみせるのが、まずは最低限のモラルというものだろう。

しかしそうした気配すら感じられないのは、自らの思考の退廃すら自覚できないほど「偉く」なってしまったからなのだろうか。

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一軒家というのに暮らしたことがない。
これまでずっと賃貸アパートや分譲マンションで生活してきた。1960年代生まれだから、ちょうどこの種の集合住宅の建設が増えてきた時代だ。物心がついてから一人暮らしを始めるまで住んでいた2DKのマンションは、いわゆる母子家庭にはちょうどいい広さで、とりたてて特別な暮らしだと思っていなかった。
それがきわめて歴史的な制約に基づいている生活だと気づいたのは、ずっと後に磯崎新の「栖12」(住まいの図書館出版局)のある一節を読んでからだった。

「(ハイデガーやミースによって)建築は廃棄されてしまいました。そして残っているのは《ダス・マン》収容所としての超高層ビル。これを横に寝かせたらアウシュヴィッツの収容所になります。垂直にするとマンハッタンです。共通しているのは《箱》ということ。蚕棚というべきでしょうか。」

80年代以降、集合住宅は量的には飽和しているし、容積率も緩和されて超高層の「億ション」というのも登場した。だが、にもかかわらずそれがある絶対的な「貧しさ」に結びついているとしたら、それは何なのか。貧困が経済的な問題であることもさりながら、これは生そのものの問題である。「強制収容所」=生の貧困という問いはやはり存在するのだ。

貧困に関して、僕には今もなお抜きがたい偏見がある。貧乏を自称できるのは「親兄弟を養わなくてはならない者」だけだ、という。彼らはただ自分の稼ぎが少ないというだけではない。それは労働を強制される立場=奴隷に等しいが、後者は近代的な意味で選択の余地がある(もちろん広義の環境によって決定されるから強制的でもある)。前者を階級的な貧困で、後者を環境的な貧困と呼ぶことが可能なら、今日メディアで話題にのぼるのはほとんど環境的貧困のほうであろう。しかし、それとは質の異なる階級的貧困というのもつねに存在してきたし、今も存在するのである。

僕の母親の前半生は典型的な階級的貧困のもとにあったが、そうした境遇から抜け出してかろうじて手に入れたのがささやかな2DKのマンションだった。それを知識人に「強制収容所」呼ばわりされるのは、やはり感情的に承伏しがたいものがある。集合住宅を磯崎のように「強制収容所」=環境的貧困に仮託するのは果たして正当なのだろうか。たとえば集合住宅は一軒家とどこがどう異なるのか。

集合住宅と一軒家の大きな違いの一つは、そこに施主が住むことを目的にしているかどうかにある。一軒家は(原理的には)施主がそこで暮らすために建てる(建売という形態もあるけど)。一方、集合住宅は施主がそこに暮らすためではなく、その部屋を賃貸したり、分譲したりするために建てるのである。要するに両者は建てる目的が異なる。見方を変えれば、一軒家には建てる=住む「主体」が存在するが、集合住宅にはそれが完成するまで住む「主体」が存在しようがない。集合住宅を建てるという行為そのものに、住人の意志を加えることができないのだ。

だから集合住宅の建築に住人は「主体」的な関与ができない。特に分譲マンションの住人は所有者であっても「主体」ではない。本質的にその寄生者にとどまる。そうした寄生性の強制の度合いが極限に達したのが「アウシュヴィッツ」であろう。環境的貧困とは、つまるところ近代が強いる生の寄生者性に起因しているのだ。にもかかわらず、彼らは集合住宅に対してあたかも「主体」であるかのような「責任」を強いられる。アウシュヴィッツの住人はありとあらゆる「人権」を剥奪されたあげく、「ユダヤ人」であることの「責任=負債」だけは強いられたのだった。これはあからさまな矛盾だが、この有り様はじつは民主国家に対する国民の「主体」のそれと同様である。その「主体」性を正当化するにために、たとえば「一般意志」のようなものが起源に遡行して捏造されなくてはならないのだ。しかし、1.0であろうと2.0であろうと、そんなものはもちろん存在しない(山本理顕他「地域社会圏主義」に触れた項参照)。磯崎はやはり正しいのである。

おそらく集合住宅のこうした有り様は、建築というよりむしろ近代国家のインフラに近いのだ。岡崎乾二郎がメタボリズム批判として、そのインフラの本質主義的な側面を批判している(「理性の有効期限 理性批判としての反原発」、「述5」掲載)。鉄やコンクリートで作られたインフラは数十年で経年劣化するにもかかわらず、あたかも永久に存続するかのように設計されている。つまりコア部分の交換は不可能である。だから近代都市の破局はいずれ不可避なのだ。それは集合住宅も同じである。超高層マンションなどは恐竜と同じで、やがて一挙に破滅する運命にある。

では、交換(更新)可能なインフラ=集合住宅というのは可能なのか。もちろんそんなことは理論的に不可能である、という事実を証明したのが柄谷行人の80年代の仕事であったのだから、今さらここで蛇足を加える必要もあるまい。