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2012年03月29日

●のりたま日録3

昨夜、Kさん事務所で3回目の基本設計ミーティング。
前回提示されたスタディを手掛かりに、自分たちの希望をあれこれ聞いていただく。
個々の場面場面のイメージがだんだん具体的になってくるとともに、住宅全体の主題も明瞭になってくる。
「巨大なスクリーンに対面する劇場のような住居」だ(スペクタクル!)。
ただその場合、やはり「階段」をどうレイアウトするかが最大の課題になってくるかもしれない。

2012年03月22日

●のりたま日録2

昨夜、Kさん事務所で2回目の基本設計ミーティング。
建物の輪郭がはっきりしてくるとともに、生活の輪郭も徐々に想像が膨らんでくる。
ここを会社の事務所にして、あそこを書庫にして、じゃあ自分の原稿は1階のこのテーブルで書こうかなあとか。その時家族はここにいるのなあ、とか。
つうか、問題は夫婦それぞれの職場を住宅に押しこめてしまったから、荷物の量がハンパないのだ。
収納どうする? というのが最大の悩みとなりそう。

2012年03月19日

●住宅哲学6 制作物としての住宅

前回「住宅」は「建築」でも「インフラ」でもない、と書いた。住宅は「小説」と同じく、近代に誕生した「雑」=多声的な生産物なのだ。にもかかわらず、それは他の作品/製品に比較して特異ななにかである。
今回は視点を変えて、制作物としての住宅について考えてみよう。

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2012年03月14日

●住宅哲学5 なぜ「住宅」で「哲学」なのか?

ところで、なぜ「住宅」で、なぜ「哲学」なのだろうか。

という問いの前に念のため断わっておくが、この文章は「建築哲学」ではない。
建築に関する哲学とは建築の本質への問いであって、そうしたことは建築家や建築界――建築する人たち――が考えるべきことだし、実際考えているのだろう。

だったら「住宅哲学」とは住宅の本質について考えることで、それは住宅に住む人――つまり僕自身――が考えなくてはならない、と思うのである。たとえば毎朝何を食べるのか(あるいは食べないのか)を考えるのが、当人の「健康哲学」であるのと同じように。
じゃあ住人にとって住宅の本質って何なんだ?

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2012年03月12日

●住宅哲学4 集合住宅は建築か

 中沢新一・伊東豊雄「建築の大転換」(筑摩書房)を読んだ。中沢についてはここで何度か論じたので触れない。伊東は中沢をブレーンにしているようだが、伊東が依拠するこの種の「反近代主義」の胡乱さは、その主張が都市にそのまま適用可能かどうか考えてみるとわかる。

おそらく伊東は、現在東北で試みているような建築を、彼自身の生活する東京やバルセロナに適用してみようとは考えないだろう。

「近代主義に基づく都市の均質空間は、経済性もあるし、高層化も容易ですし、人間の世界にさまざまな恩恵を与えてくれました。そのこと自体を否定するつもりはありません。しかし、一方で、近代主義的均質化によって人間がかなりスポイルされているという事実が間違いなく存在していて、「そうではない方向の建築もあり得る」という思いをずっと抱いていました。東北という、共同体=社会が息づいている地域での復興計画に携わりながら、私はあらためて近代主義に基づく建築から大転換して、本来建築家のとるべき姿勢で、社会とかかわる建築に取り組んでいくのだという思いを新たにしています。」(「建築の大転換」)

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2012年03月01日

●住宅哲学3 「スペクタクル」としての住宅/ローン

 今日、Kさんの事務所で(仮称)「のりたまハウス」の基本プランについて初の打ち合わせをした。その前から妙にフワフワと落ち着かない気分だったのだが、あとから考えると「家を建てる」という思いつきがついに現実となってしまう、という事実を前に、どうも気後れしていたにちがいない。人生最大の散財というか消費活動であって、これがつまり「スペクタクル」というやつなのか? というか、要するに素人で気が弱い、というだけなのだけど。
 しかもKさんにプランの方向性を提示してもらうと、これがどうもカッコよくなりそうである。Kさんがついに降臨した建築の神さんから授かった閃きに、独特の光=空間を加えたコンテンポラリーな労作である。何かもっともらしい質問もした気もするが、じつは「こんなカッコよい家に住んでいいのか」と、やはり内心ビビリっぱなしなのだった。井の頭五郎に家具を注文しよ~かな~、などと言いながら帰宅。次回の打ち合わせが楽しみ。

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