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2012年02月26日

●住宅哲学2 街路のような、動物園のような家

 「標準世帯」のようではない家、というのはどのようなものなのだろうか。たぶん、それはいわゆるnLDKモデルに適合するものではないはずだ。前にも書いたように、LDKというのは「核家族」を基準にした、L(リビング)・D(ダイニング)を中心に夫婦の寝室および子供(1~2名)の個室nが置かれるスタイルだ。LDKは家族が共有する場であると同時に接客スペースでもある。LDKモデルは仕事の時空間を外部に放り出すことで成立する。それはたとえば亭主がサラリーマンで昼間は会社に通勤する、というような不在の時間帯に家族の行動が同期している、ということである。簡単に言えば、オッサンが平日の昼間から家の中でブラブラしているようでは困るのだ。しかし僕らが必要としているのは、夫婦の部屋と母親(朝の早い老人)の部屋、そして夫婦それぞれの仕事部屋ということで、LDは必ずしも求めていない。しかも僕らは昼夜を問わず家で働いている場合も多いし、妻はピアノを弾いたりオーディオで大きな音を聞くことが仕事の一部であったりするのだ。昼間から家族三人それぞれが非同期的に家の中をウロウロしているのである。

 ぼくらがハウスメーカーに設計を依頼せず、建築家のKさんに相談しようと思ったのはそのへんに理由がある。じつは当初ある大手ハウスメーカーで話を聞いたことがあるのだが、担当者にこちらの要望を伝えた次の日には基本設計プランが送られてきた。仕事が早いのにビックリというか、ほとんど自動販売機にコインを入れたら缶ジュースが出てくる感覚だが、要するにメーカーがあらかじめ持っているLDK的な基本プランに個々の要望をはめ込んでみただけ、という作り方なのだろう。それはそれで(特に時間的な、経済的な面での)メリットはいろいろあるのだけれど、僕らの生活スタイルはそもそもそういうのとかけ離れている。

 LDKというのは、もともとモダニズム建築の機能主義的な発想に基づいた設計プランである。ハウスメーカーの場合にはそこに住宅をマーケットで流通させるための合理化と単純化への志向が強く働いているのだけれど、じつは建築家の住宅にあってもLDK的な発想は抜きがたく存在している(たとえば最近復刊された八田利也――ハッタリヤと読む、若き磯崎新らの変名――の「小住宅設計ばんざい」(1958年)ではすでにそのことが指摘・批判されている)。20世紀以来の社会全体の核家族化にともなって、建築家の作る住宅もまた核家族という基準に否応なく囚われるしかないのだ。

 もちろん1980年代頃から標準的な核家族以外の、様々な生活スタイルをとる家族や個人が増えてきており、そうした状況に建築家も対応ようとしてきた。僕らの「変型核家族・職住一体型」とでもいうべき住宅もそうした潮流の一つといえるだろうが、家族スタイルの変容と個別化に対して、LDKのようにすべてをそこに落とし込める器のような標準プランが存在するはずもない。つまりは個々の事情に応じた個別の解しかありえないのだ。それは単なるモダニズム建築ではありえないだろう。

 LDKに限らず、モダニズム建築は本質的に核家族という価値を頂点とした単一的なヒエラルヒーとして成立している。それは言ってみればモノローグ的な体系である。しかし僕らが期待しているのは、住宅という器に核家族に収まらない家族が暮らし、しかも同時に職場(2つもある)でもあるという、ポリフォニーのような空間だ。

 「だからそれって「動物園みたいな家」よね。アフリカ象もオランウータンもカピバラも一緒に住んでいる」と妻は要約してみせた。僕らはそれぞれが動物園の動物のように種類も生態も異なる動物であり、しかも一方では動物園の中をうろうろ見てまわる観客のようでもある。動物ごとに各ケージに収まっているのでなく、サファリパークのように一つの場所に複数の動物たちの生活領域が重なり合っているような、といえばいいだろうか。象の好むインテリアと、オランウータンの好むインテリアと、カピバラの好むインテリアはそれぞれ異なるだろうし、見てまわる観客にもそれぞれの居場所の違いがわかる方が楽しいんじゃないか。だいたい動物だって夜寝る建物と、昼間僕らに姿を見せる場所は異なるはずである。「寝室と仕事場の雰囲気が同じだったら、さあ今から仕事をしようって気にならないじゃないの」と妻は言うのだ。たしかに僕も集中して原稿を書きたい時は、普段の事務所でなく街の喫茶店にパソコンを担いで出かけていくことが多い。空気を変えて、気分転換した方が新鮮なアイデアが浮かぶ気がする。

 それは一つの住宅の傘の下に住人それぞれの家(や事務所)が立ち並ぶ「街路のような家」でもあるだろう。たとえば原広司の自邸はそんな感じだったと思うが、僕らが望んでいるのはリテラルに複数の家(部屋)が共存するというよりも、各人の身体的な空間感覚が齟齬なく共存している、といったイメージである。もうちょっと抽象的な例で語るなら、モダニズム建築が「論理哲学論考」のヴィトゲンシュタインならば、僕らの希望は後期ヴィトゲンシュタイン、つまり「言語ゲーム」や「家族的類似」について論じた「哲学探究」のような家、とでも比喩できるだろうか。

 そこでふと連想したのはアドルフ・ロースのミュラー邸(1930年)である。あれはモダニズムのはしりのような住宅だが、そこに収まらない可能性を秘めている。装飾を排したキューブのような外観に対して、内部空間の差異(日本間みたいな部屋まである!)が独特な複数性を産出しているのだ。ロースの「ライムプラン」を実際に体験したわけではない(この住宅は写真ではわからないとよくいわれる)のでただの印象にすぎないけれど、しかし表面的な意匠を記号論的に操作してモダンのモノローグ性を打破しようとした(そしてあえなく失敗した)かつての「ポストモダン」建築とは違って、一つの空間に複数の場所、というモダニズムが捨象してきた豊かな生活の有り様を可能性として孕んでいたのではないだろうか。

 では、と、僕はふたたび考えてみるのだ。今日、一つの住宅空間に内包する複数の場所同士の「家族的類似」というのは、どのように生成されるのだろうか。それは小さな「ビッグネス」(コールハース)のようなものに担保されるのだろうか。あるいは(最近よくみられる)一種の環境論的なアプローチ? 藤森照信がいうゼロ年代の「分離派」のような? でも、僕らにとってそれらはどうも違う気がする。僕らの解法は、むしろモダニズム的なものの内部から取り出してみせるしかないのではないだろうか。たとえば街路(プロムナード)をリテラルに解釈するのではなく、視線の複数性と物語性を同時に担保する「小説」のような概念として。すなわちル・コルビュジエ。