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2012年01月20日

●山本理顕・他「地域社会圏主義」(INAX出版)

やっと仕事が一息ついたけど、正月からこっち、憂鬱な日々が続いています。
しばらく引き籠りです。

建築家による新しい中間団体論というべきなのだろうか。戦後の持ち家政策と今日の新自由主義経済に対抗する新たな地域コミュニティの創出の試みであり、そのこと自体は非常に興味深いものだ。しかしこの種の新しい「ユートピア」が――具体的な数値とイメージで語られれば語られるほど――説得力を欠くように感じられるのはなぜなのだろうか、と考えてみる。

おそらく建築家は、モダニズムの都市計画のようなある水準までは普遍的で遍在的に適応可能な抽象性の高いプランではなく、横浜のある地域という設定に根ざした限定的なプランニングとして提出している。だから社会変革ではなく、現状の社会状況をある程度前提としたということだ。それはあくまで暫定的で一時的な共同体としてあるはずである。
もちろんそれが「革命」的でないから、という理由で批判するつもりはない。そうではなくて、だとしたらそのコミュニティ(地域社会圏)と「外部」との関係性をもっと本質的に問い詰めてみなければ、一見現実的でありそうな提起だが、結局は建築家の夢想で終わってしまうだろう。

この本には、コミュニティ=「地域社会圏」でどのような暮らしが可能かが事細かに記されている。しかし端的にいって、ここに住む人々がどんな人々(階層)で、当初どのように参加し、どのような条件で離脱するのか、あるいはコミュニティを誰がどのように立ち上げ、どのように終わらせるのか、そうしたいっさいに触れられていない。もしかしたらそれについて思考することはすでに「建築」という領域を超えているのかもしれない。それはたんに社会のグランドデザインというだけでなく、たとえば「ミル・プラトー」で論じられていた「地代」といった問題にまで及ぶものかもしれない。いずれにせよ普遍的で永続的なプランではなく、暫定的で一時的な共同体なのであれば、何よりもまずそれを考えるのが前提となるはずだ。

「地域社会圏」は閉鎖的なカルトではない。むしろ住民のある一定の流動性が前提とされる、ある意味では新自由主義的な生活意識にも親和的なコミュニティである。住民は幼児から老人まで圏内で事業を行う小さな起業家であり、そこに労働者は存在しない。いるのは「サポーター」という名のサーバントである。おそらく住民は決して裕福ではなく、しかし完全な失業状態にもいたっていない。つまり今日的な(没落解体中の)中産階級のための共同体なのだが、要するにそれは西沢大良の「現代都市のための9か条」でいわれる「スラム」である。実際、風呂やトイレが共同使用なんて集合住宅がスラムでなくてなんだというのか。

もちろんスラムの生活改良という話じたいは悪い話ではない。今後大量に産出される解体しつつある中産階級のために、むしろ自治体などは実践的に取り組むべき課題とすらいえる。だがスラムは結局スラムなのであって、結局はせいぜい過渡的なアジールにすぎないというべきなのである。それをあたかも目指すべき楽園であるかのように糊塗するような言説は、やはり「反動」以外のなにものでもあるまい。