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2011年11月01日

●「ゲルランゲ」の結末

人生の曲がり角で、日々、足踏み状態が続いています。
こんなとき、ツイッターなんか見てると、歴史はどんどん更新され、あらゆる人々からあらゆる瞬間に画期的な思考が生まれ、出版されるあらゆる本がどれも傑作ぞろいで、自分だけどんどん時代に置いていかれる気がしてくるから不思議だ。
しかしその一方で地震が起きようと放射能まみれの生活だろうと、この世界の停滞感はまるでかわらないのだから、まさかそんなはずはないと思うのだけれど・・・。

ちょ~退嬰的な気分なので、ちょっとそういう話を。
子供の頃、さほど絵本にはまるたちではなかったものの、それでも人並みに「ちいさいおうち」や「いやいやえん」は繰り返し読んだ記憶がある。
しかし、なんといってもいちばん好きだったのは「おそうじをおぼえたがらないリスのゲルランゲ」(福音館書店、山口智子訳)だった。
もちろん「おそうじ」を覚えるのが嫌で嫌で家出をするという物語に強く情動を揺すぶられたからだったけど、後年かたつむりを食べるのが厭で木の上に家出したカルヴィーノの「木登り男爵」が大好きになったのもゲルランゲの延長にように思えたからなのだろうし、自分自身、大人になってもお掃除(に象徴される労働)がいやでいやで家出のような生活を繰り返していた、結局ゲルランゲのような生き方をしてきたのだなあ、というしかない。

なんてことを思い起こしたのは、たまたまこの絵本を30数年ぶりくらいにふたたび手に入れたからなのだが、今回読み返してみてどうも納得いかない部分があるのだ。
それはラスト、ゲルランゲが家出からおばあさんのもとに戻ったところで、翻訳ではこうなっている。

「けれども、ゲルランゲは、しんは、気だてのよい子リスでしたし、おばあさんをよろこばせたいともおもいましたので、この冒険のあと、ともかく、おそうじをおぼえました。」

う~む、しかしボクの記憶では、ゲルランゲは相変わらずお掃除を覚えないまま、やっぱりのらくら者として過ごしていました、という感じだったはずだったのだ。
で、その反省なきのらくらっぷりに感動していたはずなのだけれど、これこそ自分に都合のいい記憶の改変というやつなのだろうか?