« 「家の外の都市の中の家」 | メイン | 「ゲルランゲ」の結末 »

2011年10月11日

●秋

八束はじめ「ハイパー・デン・シティ―東京メタボリズム2」を読む。約半世紀後の未来へむけたプロジェクトでありながら、八束のテキストには強いニヒリズムが漂っている。
善悪の彼岸にあるコールハースの「ビッグネス」がニーチェ的だとしたら、八束の「悪の都市計画」はさながらドストエフスキーの「大審問官」である。
とはいえ、「密度」と「コンパクト」には原子力が不可欠なのか、不要なのか、結局なにひとつ触れていないのはやはり奇妙だと思う。

ある晩、「外で虫が鳴いているね」と妻が言った。すでに深夜で、時折通りを走る車の音のほかにボクにはなにも聞こえない。しかし鈴虫やコオロギがうるさいほど鳴いていると妻はいう。ボクは耳を澄ましたが、キーンという音にならない音のような気配がするだけで、やはり無音のままなのだ。その音はボクの年齢の耳には聴くことのできない音域なのだろう。おそらくボクにはもう今後その音を二度と聴くことができないのだ、という悲哀。
しかしその時、不意にボクは「無」が何なのかを理解したのだ。自分には何も聞こえない空間には、しかし虫たちのさざめきが満ちている。それは自分が死んだ後の空間なのだと。それを「無」と呼ぶのは、たかだかボク自身の不在を対象に転移した記号に過ぎない。
「無」とは「ない」という意味ではない(存在に対立する絶対的な無をそのままで思考することは人間のう能力を超えているだろう)。そうではなくて「無」の場がある。そこにはさまざまな存在で満ち溢れている。妻はそれにいつまでも耳を傾けているだろう。ただその場には自分がいないだけなのだと。そしてその感覚はなぜかボクに歓喜を引き起こすのだ。