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2011年10月02日

●「家の外の都市の中の家」

今日でオペラ・シティのこの展示が終了するので、あわてて見にいってきたのだ。

日本の戸建て建築の平均寿命が26年というのははじめて知ったのだが(ちなみにイギリスは100年超)、その立て替え(住み替え?)を一種の「メタボリズム」(新陳代謝)と見なして、ただしメガストラクチャー的な「コアシステム」ではなく「ヴォイド」(空隙)を不在の核として都市を生成する、という発想は、しかし率直にいえば現状の都市政策に無条件に順応した前提による、あまりに「建築」内部の視野に留まっている理屈であるような気がする。
なにより建物と建物の隙間のような路地は生活にとっては26年で消滅する建物そのものよりもはるかに実在する「場」であって、それを「ヴォイド」とよぶのはたんなる建築家の知的傲慢である。
「森山邸」のような試みはあきらかに東京に放射性物質が降り注いだ3.11以前の前衛というしかないし、法的・政治的・経済的な変革にいっさいコミットせずに「コミュニティ」を建築的技法のみで生成するというのはあまりに建築プロパーに自閉した発想で退屈だ。今日的なアカデミズムの典型である
「アトリエ・ワン」にしても、はじめから年齢もそこで過ごす目的もほぼ共通の者たち(建築家のアトリエで働く人)が出入りする家であって、それを「拡大された家族」と呼ぶのはやはりレトリックによるごまかしにすぎまい。
そこには老人や赤ん坊の生活がはじめから排除されており、その排除を前提とした特殊解である。つまりまだ機能主義の尻尾を引きずっているのだ。
しかし「家」とは、それぞれ異なる生活の意識や習慣や目標を持つ者たちが一つの「空間」を共有するということではないか。
たとえばこれから実際に「家」を建てようという者にとって、そこには一つの「空間」に複数の「場」をどう重合させるか、という機能主義とはまったく異なる課題が登場するはずだ。それを考えない「生活」だの「コミュニティ」だのといった概念は机上の空論でしかないのだ。