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2011年09月20日

●メタボリズム展という「政治」

日曜に「メタボリズムの未来都市展」@森美術館のシンポジウムを見てきた。文字どおりメタボリの当事者たちとレム・コールハースを目に収めたいだけだったので、休憩中に導師のごとき風体の磯崎新が相変わらずダンディな槇文彦に挨拶するシーンを横目で眺めてきただけでボクとしては充分満足だったのだ。
ただ、とりわけシンポ第2部「メタボリズムという政治Metabolisum as politics」は看過できない内容だったので、ちょっとだけ覚書と感想を記しておく。

第2部の出演者は「プロジェクト・ジャパン」をまもなく発刊するコールハースのほかに、東浩紀、御厨貴、そしてモデレーターの八束はじめという面々だったのだが、何が話されていたのか、正直なところまったく記憶にない。
沈滞した空気の中、「こういう脱領域的な座談会を仕切れるのはやっぱり浅田彰だけなんだなあ」とボンヤリ思っていたところに、客席にいた磯崎の喝が入って会場はにわかに白熱し、コールハースがなんだかとても嬉しそうにしていたのが印象的だったのだが、磯崎御大いわく「戦後の廃墟のうえに成立したメタボリは「悲劇」だったが、3.11後のこのシンポは「笑劇」(マルクス)にすぎない、とキミらは自覚しているのか? ぜんぜん笑わせてくれないじゃないか!」
で、磯崎の発言に対して、露骨に不愉快そうに「メタボリも建築業界のことも知らないボクが詰まらなくてスミマセン」と拗ねてみせる東の対応はコールハースとの器量の差を露呈してしまったが、ともあれその発言を引き取って八束がコールハース=ルイ・ボナパルト説をちらっと仄めかしたのは、これは建築史的に案外と正鵠を射ている気もする。

しかしそんな場外からの介入にもかかわらず話は結局グダグダで推移していったのだが、それというのもタイトルに「政治」と掲げておきながら、この面々が政治という概念をまったく明確な問題意識で支えられなかったからだった。
当事者の自覚とは異なる水準で作用している「政治」を問うというなら、それはメタボリに対する批判のみならず、それを語る出演者の立ち位置に対する問いでもあるはずだ。
メタボリが吉田茂以降の戦後政治の大きな文脈の中でしかるべく配置され、丹下研が政府のシンクタンクのような役割を果たしていたというのは、「建築」という自律的な分野で大きな仕事を成し遂げてきた磯崎や槇への批判には当然なりうる視点ではある。
だが、その問いは同時に産学共同システムにどっぷり浸かった大学や国家の内部で仕事をしている現代日本の建築家たち自身の「政治」意識にまずは向けられるべきだ、という点に出演者一同がまったく無自覚なのには、ほとんど驚愕するほかはない(しかも彼らの立ち位置は、グローバリゼーションを背景に大学や国家をある意味で手足のように使役しうるコールハースのようなスター建築家にとっての「政治」とも異なるはずである)。
そのあげくに、最後に質問に立った若手有望建築家が「官僚といいお付き合いをするにはどうしたらいいんでしょう?」(大意)とカマトトぶって官僚べったりの政治学者に尋ねるの図というのは、知の退廃というか崩壊そのものを見せつけられた気がして、何とも気色の悪い見世物なのだった。

会場からも八束の著書「メタボリズム・ネクサス」について「時代錯誤」と批判されていたのだが、じつは八束のこの本には原子力発電に関する記述がまったくなく、今回のシンポでも一言も触れられていない。
だが、メタボリは状況的にも人脈的にも原子力発電とは腹違いの兄弟みたいなものであるのは明らかであり、今「メタボリの政治」を問うとしたらこれを除いていったい何ができるというのだ?

というか、このシンポについてその「政治」的意図というのを勘案するなら、要するにメタボリの(槇に代表される)「戦後民主主義」的な側面は否定して、その一方で官民学一体の「40年体制」再建(だから原子力については無批判)というのが今回のテーマだったのにちがいない(ちなみに八束が「ダイヤモンド・オンライン」で語っていた中央集権的復興構想は露骨にそうだと思う)。そりゃ浅田彰は呼べないよな。
しかしグランドデザインの復興に官僚との協力が不可欠というのが結論というなら、もっともらしく学術的なふりで「政治」を語る前に(その程度のこともできていなかったが)、彼ら自身の具体的な政治背景について、もうすこし明確にしたほうが正直というものである。
まあ、その意味では民主党の悪口を繰り返していた御厨は案外実直だったのかな。