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2011年08月11日

●リトル・ピープルの「時代」?

韓国戦、日本代表は強かったけど、韓国はなんだか八百長問題で揺れる韓国サッカー界の今後が人ごとながら心配になるような生気のなさだった。
そういえばトルシエ時代にオリンピック代表がアウエイで韓国をボコって、それが遠因となってヒディンクが呼ばれたと記憶しているけど、今回はどうなるんだろ。
もし韓国協会に力があれば、アルゼンチンあたりから有名監督をひっぱってこよう、なんで考えるんじゃないだろうか。
チソンが引退して難しい時期ということもあるので、このまま韓国が弱体化するとは考えられないけどね。

閑話休題。
最近、オウムの地下鉄サリン事件について思い出すことが多いのだけど、それはきっと東日本大震災をきっかけに文学者たちが堰を切ったように語り始めたことと無縁ではないのだろう。
つまり3.11は長らく続いたオウムの呪縛を解いたと思えるのだ。(中沢新一をはじめとして)文学者たちの多くは今回の震災と原発事故に関してはおおむね胸を張って「無罪」といえるからである(ちなみに90年代初頭に原発広報に関わる仕事をした経験があるボクには、そう簡単に無実とはいえません)。
むろん「無罪」というのは、そうした言説を文学としてどう評価すべきか、というのとはまったく別の問題である。
いっぽうオウムというのは――当時の記憶を同時代的に抱いている者にとっては――自分自身がそれになんらかのかたちで「加担」したのではないか、という不安や後ろめたさを拭いきれない対象だったはずだが、しかしその場合の「加担」とは何だったのか。

ところで最近、故あって宇野常寛の「リトル・ピープルの時代」を読んでいるのだが、ある意味でこの著作は3.11以降の文学者の言説の典型的な有り様を示しているように思うのである。
「リトル・ピープルの時代」では、オウムをどんな時代背景に配置しているのか。

「60年代末、より具体的には1968年前後は、世界的にビッグ・ブラザーに対する反乱が起こった瞬間だったのだ。この30年の間にビッグ・ブラザーは壊死していった」
「奇しくも「1984年」にその母体となるカルト組織が結成されたオウム真理教は、まさに「新しい時代」の生んだ鬼子だった。価値相対主義と消費社会の浸透は大きな物語の喪失をより鮮明なものとし、モノはあっても物語のない消費社会に耐えられない「弱い」若者たちは〈ここではない、どこか〉を求めた。その反応のひとつが当時を席巻したオカルト・ブームであり、その過程で成立したオウム真理教はその鬼子だったのだ」

一見、自明なことを語っているかのようなこの叙述について、それを「分析」と呼ぶにはためらわれる。ビッグ・ブラザー=大きな物語と「鬼子」と二度名指されるオウムとの論理的関連にまったく踏み込んでいないからである。にもかかわらずこの叙述が読者の感性的な記憶に合致するかのように思われるとすれば、それが「分析」ではなく時間的経緯に準じた「物語」を語っているからだ。
もちろんこうした「分析」的な意匠を施した物語(世代論)はとりたてて珍しいものではない。たとえば「リトル・ピープルの時代」が引用(依拠)する宮台真司の言説もまたそうした傾向を強く有している。「かくして、地下鉄サリン事件は起こった」という物語的言説こそ「リトル・ピープルの時代」の批評のコアなのだ。生産主体としての消費者、という観点はこの決断主義/機会主義的な言説性に保証されているのである。

オウムの事件に敏感に反応したのは、なにもここで扱われる村上春樹より以下の世代に限ったことではなくて、たとえば国際的な評価(それがこの著作の葵の御紋なのだが)という意味では村上春樹に優に匹敵する大江健三郎や磯崎新がすぐに思い浮かぶ。
「ビッグ・ブラザーとはウルトラマンであり、リトル・ピープルとは仮面ライダーである」という宇野常寛のテーゼは、彼らを前にすればもちろんまったくリアリティを失うだろうし、話者自身の視界からも彼らの存在は完全に排除されているが、もちろん「「かくして」という物語的言説」で大江や磯崎を扱うことが不可能だからである。
それは彼らがオウムを「鬼子」(それは「小さなビッグ・ブラザー」なのか「リトル・ピープルの生む「悪」」なのか?)などといった通俗なイメージではなく、(反)国家的な表象/代行性の臨界として捉えているからにほかならない。大江であれば「同時代ゲーム」から「燃えあがる緑の木」にいたる根拠地(共同体)の思想がオウムに同時代的に共振する面があったわけだし、磯崎ならば反・万博としての「つくばセンタービル」の延長線上にサティアンが顕現したのだといってよい。(ここでの表現を借りれば)「悪」に事後的に「加担」することになった責務がそこには生じる。

この著作の話者の叙述はあきらかにオウム(麻原彰晃)の側からではなく、オウムに惹かれた当時の若者に視点を置いている。しかしそれはモノを享受するバブル的な消費行動と根を共にする受動性と違いはないのだ。いずれにせよ大江や磯崎のような戦後日本の(反)国家的な表象としてのオウムという視点は、「リトル・ピープルの時代」が前提とする消費的存在の一義性にはまったく包括しえないものである。
「リトル・ピープルの時代」では、村上春樹の言説がオウム事件を境に「デタッチメント」から「コミットメント」に変化した、としている。だがここでの「デタッチメント」(消費)も「コミットメント」(生産)も、どちらも消費的存在の一義性=無差異(無関心)を前提としているに過ぎず、そこには機会主義以上の契機は見出せない。しかしだからこそ消費者には「加担」という意識もなく「時代精神」としてオウムを論じる立場が保証されている。
(ただし村上春樹の作品は消費者ではなく表象/代行する者としての側面をあきらかに抱えているのだが、ここで触れる余裕はない)

話者の主張する「コミットメント」も消費的存在の一義性の内側にある。表象する主体ではなく、消費者の一人として「物語」ること。それは「時代」に内在することと「時代」のメタレベルに立つことを同時に可能にする。つまり「リトル・ピープルの時代」と呼ばれる宇野常寛の「われらの時代」を語ることを可能にするだろうが、しかし「リトル・ピープル」を生み出す構造の分析にはたどり着きそうにない。そこではせいぜい「グローバル資本主義」であり「システム」であり「貨幣と情報のネットワーク」である、とさまざまに言い換えられるにすぎないだろう。
「リトル・ピープルとは仮面ライダーである」という言明には、消費者もまた話者である/話者もまた消費者である、という以上のメッセージは含まれてはおらず、このレトリックを共有することが時代精神への参加(生産と消費が等価であるような「コミットメント」)となりうる、とされる。おそらくそれを(連合赤軍とオウム、つまり大江健三郎や磯崎新といった「悪」を排除した後の)「小さな「父」たちのコミュニケーション」と呼ぶのだ。
もっとも、そうした「コミットメント」はすでに80年代に(たとえば四方田犬彦が中上健次――この作家も宇野によって「もはや論じるに値しない」と排除された一人だ――に依拠して「ブラザーフット」(兄弟仁義!)を論じたように)先駆的に論じられてきた主題ではあるのだが。

「「リトル・ピープルの時代」の暴力は、連合赤軍やオウム真理教の代表するカルト的な想像力とはあきらかに異なっている」という言明はボクにはとうてい事実とは思えない。むしろ「グローバル化/ネットワーク化した」今日の世界では、国家そのものがカルト化しつつあるのではないのか。アメリカのティー・パーティはその典型だし、日本やロシア、南米諸国もおそらくそうだろう。歴史はこの著作の話者が想定するように単線的に進行(進化)したりはしないのだ。
宇野常寛は年齢的にオウムについて主体的な「加担」を語れない世代に属するが、まさに無差異(無関心)を前提とする立場によって3.11をかくも容易に時代精神として(「悪」に「加担」せずに)位置づけることができるのである。
もちろん、そうした「無罪」性は、村上春樹より以前の作家たちの意図的な軽視と無視、という政治的な排除を通して遂行されたフレームアップにすぎない(機会主義的な言説性はこうしたフレームアップのために選択されたともいえる)。
だが、一方でこうした語りによって若い読者たちは、自分も「貨幣と情報のネットワーク」に「無罪」のまま参加(ハッキング)できる、と安堵することができる。今日の社会に有用な文学とはきっとこうした著作のことをいうのだろう。