« 2011年08月01日 | メイン | 2011年08月13日 »

2011年08月11日

●リトル・ピープルの「時代」?

韓国戦、日本代表は強かったけど、韓国はなんだか八百長問題で揺れる韓国サッカー界の今後が人ごとながら心配になるような生気のなさだった。
そういえばトルシエ時代にオリンピック代表がアウエイで韓国をボコって、それが遠因となってヒディンクが呼ばれたと記憶しているけど、今回はどうなるんだろ。
もし韓国協会に力があれば、アルゼンチンあたりから有名監督をひっぱってこよう、なんで考えるんじゃないだろうか。
チソンが引退して難しい時期ということもあるので、このまま韓国が弱体化するとは考えられないけどね。

閑話休題。
最近、オウムの地下鉄サリン事件について思い出すことが多いのだけど、それはきっと東日本大震災をきっかけに文学者たちが堰を切ったように語り始めたことと無縁ではないのだろう。
つまり3.11は長らく続いたオウムの呪縛を解いたと思えるのだ。(中沢新一をはじめとして)文学者たちの多くは今回の震災と原発事故に関してはおおむね胸を張って「無罪」といえるからである(ちなみに90年代初頭に原発広報に関わる仕事をした経験があるボクには、そう簡単に無実とはいえません)。
むろん「無罪」というのは、そうした言説を文学としてどう評価すべきか、というのとはまったく別の問題である。
いっぽうオウムというのは――当時の記憶を同時代的に抱いている者にとっては――自分自身がそれになんらかのかたちで「加担」したのではないか、という不安や後ろめたさを拭いきれない対象だったはずだが、しかしその場合の「加担」とは何だったのか。

続きを読む "リトル・ピープルの「時代」?"