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2011年05月22日

●建築家の思想?

普段からあまり雑誌は見ない方なのだけど、この時期に発行される雑誌は震災の影響がはっきり見られてなかなか面白い。

その中で「思想」5月号の建築特集は、原稿執筆の時期はほとんど3.11以前でそれぞれに後記のような文章が付記されていて、この震災が建築業界に与えた影響があからさまに読み取れる。

とりわけ伊東豊雄と山本理顕に白手袋を投げた磯崎新のテキストは、すでにネットに上がってる難波和彦や石山修武、鈴木博之らの反応も含めてなかなかヴィヴィッドである。しかしこの特集では最年長の磯崎から1970年代生まれの若手まで寄稿しているのだが、いちばん過激そうに見えるのが磯崎だというのは何とも皮肉な感じだ。

磯崎はすでに震災前に書かれたテキストで建築概念の根本的な変容の必要性を説いている(そのため3.11という「事変」の予言にすら読める)のだが、それに対して1世代下の建築家が「建築は言葉で語れるものではない」という意識的な反動を主張し(しかもこういう建築=芸術的な志向には意外とポピュラリティ(人気)がある)、もっと若手になると「ボクら、何となく今のままトンネルを掘って行けばいい感じで何とかなるじゃん?」的な、ほとんど何の捻りもない現状肯定をあからさまに表明していて、読んでるこっちが失笑というか赤面してしまうほどだ。

まあ、年寄りの冷や水にはそれなりに敬意を表しておいて、若手の現状肯定を「環境」や「生態学」(ギブソンの「アフォーダンス」)という思想で優しく肯定しておこう、というのが編集部の意図だったのかと想像されるのだが(しかもそれが震災の影響で完全に失敗しているところがこの特集の読みどころである)、しかしその「思想」ってのが何とも胡散臭いのは、そもそも「環境」や「生態学」というのは「近代の超克」が語られる際の思想史的なクリシェなのだが、ここで語られる「生態学的建築」の範例として挙げられる「ルイス・バラガン邸」についての、何とも「詩的」な記述からして、そうした自覚がどうやらまったくないらしいのである。

それどころか放射性物質に対してアフォーダンスという概念は適応可能なのか、というのが3.11以降のわれわれの根本的な懐疑なのだが、中谷礼仁(「セヴェラルネス」)が指摘するようにそもそもアフォーダンスが成立するためには「物自体」(「かたち」)が不可欠であるというのがまっとうな理解であるはずで、むしろ放射能は「物自体」が現象界に露呈したようなものではないのか。

だとすれば「物自体」(磯崎ならそれを「実践理性」というだろうが)についての思考を欠いたその種のゼロ年代的な解釈は、要するにハイデガー以前の新カント派の焼き直しにすぎない。すでに寝言なのである。