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2011年05月17日

●正義と国家

震災のどさくさにまぎれて(?)大阪府知事が「国歌の際に教師の起立義務化」とか言い出しているらしい。
以前からこの男にはあまり関心がなくて「きっと史上最年少の総理の座でも狙っているのだろうなあ」「そんでもって自分の前に国民をギレン・ザビのように跪かせたいのだろうなあ」くらしいにか想像していなかったのだけど、もちろんそうした野心の実現のための世論の喚起には長けているらしく、この問題も現場から反発が強まれば強まるほどその思う壺なんだろう。

まあ、やりたきゃ勝手にさせておきゃあいいとも思うのだが(実際それは基本的に体制の現状維持を前提としたささやかな野心というべきで、たとえばかつての元絵描きの独裁者や元二重スパイの独裁者のようなイデオロギーの強靭さと複雑で魅惑的な人間性とによって国民を危機に導くようなタマではない)、とはいえそれも何だか片腹痛い気がするし、それに対する硬直した反論であの男に名をなさしめるのもなんだかなあなのである。
なんだったらいっそ学校では君が代だけでなくありとあらゆる国歌を積極的に流して、そのたびごとに教師が起立すればいいんじゃないか、と思ったりもする。もちろん合衆国国歌にも韓国国歌にも北朝鮮国歌にも中国国家にもフランス国歌にもジンバブエ国歌にもいちいち起立してみせれれば、それは森の中の葉っぱというか、世界中のあらゆる国歌への敬意という意味に変換されるんじゃないだろうか。
想像するに休み時間中、突然聞いたこともないような国の国歌が拡声器から響き渡ると、校庭で一緒に遊んでいた先生たちが一斉に直立不動の姿になってその耳慣れぬメロディに耳を傾ける光景というのは、とりわけ外国籍の子が多い大都市の生徒たちにとっては教育的ですらあろう(もちろん国家という存在が人間の身体をいかにディシプリンするか、という生きた実例にもなろう)。

ちなみにボクはサッカー代表の試合を見に行く際には、日本の国歌でも相手国の国歌でも相手サポーターへの礼儀として起立してますけどね。
(たった今、南米選手権辞退の報を知る。無念)

ところで、近頃はロールズの「性議論」もとい「正義論」を読んでいるんだけど、あまり慣れぬ種類の大部の書物のゆえなかなか難渋している。それだけでなく、上記のような機会主義者の政治家やフクシマ問題に対する政府の対応を見るにつけ、日本に「正義」という観念がそもそも存在するのか、はなはだ疑問に思えてくるのだ。
おそらくロールズのような議論がリアリティを持つためには、そもそも国家の根底にconstitution(憲法)がなければならないのだろう。日本でそれにあたるのは(今日においても暗黙のうちに想定される)「国体」なのだろうが、「国体」という観念はもちろんロールズのいうような「公正」とも「正義」とも無縁である(国歌に起立することは正義といかなる関係もない)。おそらくロールズの議論を真剣に考えられるとすれば、それはむしろ国際社会(国連)のような新たな共同体においてなのかもしれない(「世界共和国」?)。

6.2付記
ジジェクはロールズの「正義」をカント的な形式主義に陥っていると批判する。しかしエジプト等で起きた革命は、インターネットによる情報の共有が(逆説的にも)「無知のヴェール」のように機能したということだとしたら? 「非社交的な社交性」としてのフェイスブック。形式主義の破壊的な力。