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2011年05月09日

●歴史の狡知

浜岡原発の一時停止に対する推進派(およびそれを後押しするメディア各社)の反発は奇妙なものだ。それが(不幸なことに)原発への反対運動へのガス抜きになるだろう、ということは容易に想像できるからだ。
客観的にみて(菅政権にはとりあえずなんでも反対しておく、という一部の勢力にとって以外には)浜岡の停止という判断はごく合理的な判断であるように思える(6月のIAEAの査察を待つべきという考え方もあるが大差はないだろう)。
しかも浜岡以外の原発には手をつけない、という言質を現政権から取り付けたことで、推進派にとってもおそらく一定の成果を得たともいえるのだ。これを落としどころとして、むしろ推進派は勢いを取りもどすのかも知れない。
年度内に何らかのかたちで「終息宣言」が出されることで、残念ながら原発問題は完全に過去のものとされるのではないだろうか。

(以下は完全な空想というか妄想)

だが、原発の本当の困難はむしろこれからにあるのかもしれない。
ビン・ラディン殺害に対してアルカイダは報復を宣言しているが、おそらくテロの目標が今後世界各地の原発にも向けられるであろうことはほぼ確実のように思われるからだ。
なにしろフクシマでは、ある種の原発は外部電源を遮断するだけで簡単に爆発する、という事実だけでなく、この手段の容易さに比較して効果は絶大(全地球規模の放射能汚染)であることが証明されてしまった。ナイフ1本で旅客機を墜落させるより、もしかしたら地震や津波よりもそれははるかに現実的な恐怖なのかも知れない。
今後、世界の原発は災害対策だけでなく、本格的かつ永続的なテロ対策にも取り組まなければならない、というのは安全保障という意味で当然のように思われる。
しかし、その費用と効果を考えたら「テロとの戦い」には脱原発に本気で取り組むのが最適、ということにはならないだろうか。
(もちろんそれまでに何らかの手痛い教訓を被ることを欧米各国ともちろん日本は覚悟しなくてはならないだろう)
あまり想像したくはないのだが、もし悲惨なテロの結果が人類をして環境問題の解決に向かわせる、という未来がありうるとしたら、「正義」がいったいどこにあるのか、われわれは本気で問い直さなくてはならないかもしれない。
その意味で大江健三郎の90年代の長編を読み返す必要がある、というのはボク自身の現在進行中の主題なんだけど。