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2011年04月15日

●思弁としての危機

4月9日に岡崎乾二郎、松浦寿夫、小林康夫の三氏による座談会(主催・四谷アートステュディウム)を聞いてきた。テーマはもちろん今回の震災について。

いくつか面白い指摘があったのだが、ここで取り上げたいのは、3月15日前後に見られた放射能の被爆を避けるために東京を離れる、という行動について、それが「将来のガン発症率を数パーセント下げるために避難する」ためならば、要するにマーケットの投資と同じスペキュレーション(投機=思弁)にほかならない(大意)というのである。
もちろんそうした避難は、銀行の定期預金が金の先物取引より「道徳的」である、ということはまったくないのと同じ意味で、道徳的に非難されるべき点はいっさいない。むしろこの指摘が意味するのは、今もなお続くこの原発事故がリーマン・ショックとまったく同じタイプの内在的な危機だ、ということである。

「日本社会」がこの危機を回避する方法はいくつか考えられるだろう。
まずはフクシマを物理的に安定させ、安全にすること。だがおそらくそれまでには数年を要するだろうから、それまでに情報論的な操作が必要になる。

その一つは「責任」をめぐる言説の確立である。今回の「想定外」というのは、誰もがそう思うように政府ならびに東京電力の「無責任」を免罪するために発せられる言葉だが、しかしこれまでも「自己」や「責任」という概念が日本の国家的な無責任を隠蔽するために使われてきたのは事実である。
90年代には「自己の立ち上げ」という概念によって歴史的過去(とりわけアジア)に対する責任放棄が現在への「責任」であるとされ、ゼロ年代には文字どおり「自己責任」という言葉が―政府の無責任があたかも社会モラルの発露であるかのように―大合唱された。今回もまた「(無)責任」をめぐる言説が国民的に意図的に立ち上げられることになるだろう。
(「がんばろう日本」というスローガンにすでにその気配が感じられる)

二つめは「放射能の危険は左翼のデマだ」という類の言説の流布と放置。こうした危機自体の否認は、おそらく雑誌やインターネットを中心に今後どっと増えることになろだろう。それが可能なのは、フクシマ事故が基本的に情報に基づく危機だからだが、にもかかわらずこの危機が生物としての人類に「リアル」であるという点に困難と限界がある。端的に日本の周辺各国はその危険を決して容赦しないだろうからだ。

三つめは、フクシマを端的に報道しなくなること。おそらく危機の実体はともかく、数ヵ月後のある時点で「安全宣言」が出され、それをきっかけに直接の原発報道はほとんどなくなるのだろう。日本のGDP低下や電力不足や産業の危機と原発事故とは切り離して論じられるか、政局の一部として矮小化されるはずだ。

こうして「日本社会」はふたたび平和を取り戻すことになるのだろう。もちろん実際のフクシマや社会・経済の実情は想像以上に壊滅的だから、それぞれの課題についてある程度個別に対応(リアクション=反動)はとられるだろうが、しかしそれが「問題」として語ることは避けられるようになるにちがいない。
必要なのは、「日本社会」のこうした分離・忘却に対して、個別の課題を大文字の「問題」として再構築する方法であるはずである。