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2011年03月31日

●「天罰」

建築家の石山修武が自身のブログ(3/29)で石原慎太郎の「天罰」発言を肯定していた。正確に引用する。

「石原慎太郎氏がこの災害を天罰だと言って、多くの批判を浴びたが、わたしは同感するのである。石原氏は珍しく良い事を言った。言葉が足りず三陸海岸の人々に対する言と受け取められたのであろうが、石原氏は巨大消費都市東京の人間を含む、つまり我々消費的生活に埋没している人間達への天罰だと言いたかったのだろう。そうに決まっているではないか。だとすればこれは正論である。」

石原の、自分自身が戦後の消費社会の申し子のような存在でありながら、それをまるで他人事のように上から目線で非難できる、滑稽を通り越してもはやグロテスクなナルシシズムについてはとりあえず措いておこう。
そうではなくて、ここで考えるべきなのは、石原の発言が震災直後だったのに対して、石山のそれは災害への関心の焦点が福島原発に移ってからのものであるという点にある。
「我々消費的生活に埋没している人間達への天罰」とは、その意味ではとりあえず石原のそれよりも理解できる視点ではあるのだが、しかし「天罰」という言葉がはらむ一種の神話性にはやはり首肯しがたいのだ。
「天罰」が、原発というテクノロジーの傲慢さに対する罰という意味でなら、それは「バベルの塔」の現代版ということであり、従って片方で「東京スカイツリー」建設が象徴する現代文明の表裏をあらわすといってもいいのだろうが、しかしその破綻はあくまで文明の内在的な問題であって「天(神)」という超越的な存在による作用では決してない。
むしろ「天」という存在を想定してしまうその言説そのものが、文明がもたらす内在的な「恐怖」に基づいているのであって、その逆ではない。この「恐怖」の源泉は、フロイトがいう意味での親密でかつ不気味なものなのだ。
「天」を想定することで、われわれは自分自身の「恐怖」から眼を背けることになる。
それによって(今のところ)生き残っている我々は、まだ生き残っていることによって自分の本質的な無罪をひそかに確信することになる。
しかし今、ここにある事態は(今後の社会的、経済的な行方も含めて)もっと絶望的なのである。
「天」は存在しない。だからわれわれには「救済」もないのだ。

(そのいっぽう矢部史郎が呼びかける反原発ゼネストは、原発という「神話的暴力」に対抗する「神的暴力」(ベンヤミン)の招来という意味でその意図は充分に理解できるのだが、にもかかわらずその「神的暴力」が結局は「恐怖」に基づいている点で文明批判としてまだ不十分であると思う)