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2011年02月15日

●「ソーシャル・ネットワーク」

やっと仕事がひと段落したので、映画もサッカーも見れてうれしいんだけど、今週はいきなりアーセナルvsバルサだ。
バルサに勝てる見込みは皆無、とは言わないけど、20%もないだろうなぁ。
というか、万が一アーセナルがバルサに勝ちでもしようものなら、世界中のサッカーファンに恨まれる気がする・・・。
まあ、今年はカップ戦のタイトルが獲れればそれでよしとしよう。

(公開して1月あまりでいまさらネタバレもないけど)

濱野智史が「映画芸術」に(主人公の)「ザッカーバーグは天才でもなければ理念も持たない、ひたすらに俗物で劣悪な人格の持ち主として描かれる」と書いている。
でも、ボクはそんなふうにネガティブな印象はあまり持たなかったのだ。
というか、むしろマークくんは彼の周囲を取り巻く連中に比べて「素直で可愛い男子」にすら思えたんだが(映画ファンならマークよりずっと「俗物で劣悪」なキャラクターをいくらでも挙げることができるはずだ)、この評言はむしろ濱野氏が過剰に主人公に感情移入していることを示しているのかもしれない。

唐突だけど、「述」の文学の2000年代をめぐる座談会で、すが秀実が00年代の小説を「「弱い」父親との和解」に回収される、と批判している。
もちろんすが氏は「文学」を「息子」の位置に措定して言っているんだけど、その視点を逆にして「文学」じしんがむしろ「「弱い」父親」なのではないか、と仮定してみよう。
すると、どうなるのか。

「ソーシャル・ネットワーク」もじつは「「弱い」父親との和解」の物語(裁判)ではないだろうか。
この映画には二組の原告=「父」が登場する。
一方は「フェイス・ブック」のアイデアをマークに登用されたと主張する資産家の息子兄弟(双子のウィンクルボス兄弟)、もう一方はマークの元共同経営者だった青年であり、前者をフェイスブックの形式上の「(弱い)父親」とするなら、後者はマーク自身の庇護者でありかつ資金提供者である、つまり生活上の「(弱い)父親」に他ならない。
前者はフェイス・ブックに対していかなる権利も有していないということを、彼らの訴訟とその勝ち取った「和解」についてレッシグが痛烈に批判しているけど、彼らの権利「らしきもの」は(法的には)文字どおり「弱い」ものだ。
おそらくこの映画での双子の位置は、近年の「文学」が主張する、現在の様々なメディア(マンガやアニメ、ライトノベル・・・)に対する位置に類比できるだろう。
「文学」は大学アカデミズムや出版社を中心とした「業界」カルテルに囲い込まれることで、一葉や漱石や谷崎の「息子」としての特権的な地位(所有権)を主張している。
それを「制度」というんだけど、もちろん純文学の小説家や文学研究者がそんな特権を主張できるいかなる根拠もじつは存在しない(著作権とは一切関係ない)。
彼らはあたかも「文学」の「正統な遺産相続者」であるかのように振る舞い、また周囲からもそう遇されている。
かつての「漱石本」ブームも「相続の正統性」を主張する意図があったわけだけど、しかし実際には双子と同じで、それは単なる錯覚であり勘違いなのであって、であるからこそ逆に「純文学」業界においてのみ、正真正銘の生物学的な「血統」だの「血縁」だのが重宝されるわけだ。
(それが芥川賞のようにマスメディアに露出する場合、美人であればなおさらである)

思えばザッカーバーグがファイスブックを立ち上げのが2004年で、日本で東浩紀が「ゲーム的リアリズムの誕生」を公刊したのが2007年である。
東氏の試みとは(その論旨には様々な弱点があるにせよ)要するに「「弱い」父親」に対する生真面目な「長男」の「抵抗」だったのだろう。
つまり濱野氏は東氏もそこに属するらしい新興成金の「三男」として(お調子者の「二男」は宇野常寛だろう)「「弱い」父親」への屈曲したアンビバレントな感情を(自分自身を投影するキャラクターについてちょっとやんちゃでひねくれた三男坊らしく)「俗物で劣悪」という形容詞に込めているのである。