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2010年10月05日

●長らくご無沙汰してしまいました。

この夏はなんやかやと忙しかったのを口実に、ずいぶん長いこと更新をサボってしまった。
しかもまだまだ忙しい・・・、たぶん年内いっぱい忙しくて見たい映画にすらいけないので、ここに書くネタがないのだ。

以下、暇文字をつらつら・・・。

でまあ、仕事がらみでいうと、今は大江健三郎の「治療塔」を読んでいるんだけど(この本じたいについては後日きちんと書くつもり)、ちょっと気になっているのは、この小説が発表された1990年当時と現在とでは「地球環境問題」に関するパラダイムが大きく変化したんだなあ、ということ。
当時の環境問題というのは、少なくとも(核の問題以上に)地球の危機の直結するものとして考えられていなかった。
大江のような日本の知識人に限らず、環境問題は今日のような中心的な議題としてまだ世界的にさしたる重みをもって扱われていなかったのだろう。
たとえば同じ頃にデリダが発表した「マルクスの亡霊たち」(1993年)で挙げられている「「新世界秩序」の10の傷口」と呼ばれる(失業問題やホームレス、自由市場等の)課題の中に「環境」に触れた項目はないのだ。

環境問題の中でも、特に「地球温暖化」と「CO2削減」が一般に浮上したのは、たぶん1997年の「京都議定書」策定以降のことだったと思う。
よく言われるようにこの二つのテーマの絡みにはどこか怪しいところがあって、最近も某BSの討論番組でCO2削減を主張する気象庁関係者とそれに疑念を呈する科学者の議論の応酬を見たんだけど、たしかに政府のお抱え研究者の語るこの種の統計数値なんぞを真に受けるのは、どう考えてもまともであるはずがない。
ゴアのような政治家の主張の裏には新エネ関連の利権がらみなんだろうとは容易に想像できるんだけど、ただし環境問題はなにも地球温暖化だけに限らないわけで、エコの欺瞞をつくことで環境問題一般をシニカルに嘲笑する知識人というのも、やっぱり石油関連かどこかの既成利権がらみの主張なんじゃないか、と疑わしいことはなはだしい。

地球環境問題なるものの核心を率直にいうなら、要するに「60億人超の人口を持続的かつ安定的に食わせていくことができるのか?」ということだ。
(科学者が放言してたように、60億人の10分の1ならば平均気温が5℃上がろうと問題ないのである)
そしてもちろん、われわれはその答えを知っている
証拠はなくとも、その答えに(無意識は)ほとんど確信を持っているので、日常生活ではそれにまだ気づいていないふりをしているのだ。
「エコ」がしばしばフェティッシュ化するのは、われわれがフェティシストのふりをしてこの破滅的な「現実」をやり過ごそう、という知恵のようなものなのである。
またいっぽうで「エコ」を推進することで経済的な繁栄を求める層というのも確実にいるわけで、そういう彼らも破滅する60億人のうちの数10パーセントしか買うことのできない「ノアの箱舟」の乗船チケットを予約するつもりでいるはずである。

だから、そういう生活の知恵(フェティッシュ)を嘲笑する啓蒙的で左派的な知識人が発する批判のエリート臭というのは、すでにチケットを裏口で手に入れたつもりでいる(フェティッシュの必要のない)新自由主義的なエリート層のそれと区別できない、ということになる。
啓蒙がとうに破産しているのに、それがまだ有効であるかのような錯覚を未だに有している点で彼らはあまりに鈍感すぎるのだが、しかし左派知識人が口にするべき本音は「60億人超の何割かが破滅する際に、どのようにふるまうことが正当か」なのであり、たとえば「世界史の構造」の柄谷行人がそれを知らないはずがないのあって、じじつあの書物は「世界共和国」樹立のためにもう一度世界戦争が必要である! と主張しているのである。

原理的には「60億人超の何割かが破滅する際に」は、生き残りがいっさい存在しない、アメリカの大統領も、ローマの法王も、日本の天皇も、アフリカのエイズ患者も、全世界の中産階級も一人残らず平等で例外のない絶滅を選択するべきだろう、と思う。
平等という観点からのみ正義を考えるならば、たとえば核テロは肯定するべきであろう。放射能という災厄は、経済的・社会的な格差に関係なく、あらゆる人類に対して(直接的にせよ間接的にせよ)その生存に影響を与えることが可能だからだ。

ただし、これは終末論ではない。
終末論とは終末の後で生き延びるを得た人々の視点から語る物語だからである。
終末論的なのはむしろ「資本主義は永遠である」と自賛する現在の新自由主義のほうなのだ。