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2010年06月23日

●北野武「アウトレイジ」

デンマーク戦前日、ここに至ってもはやいうべきことはなにもない。日本サッカー史上最大のチャンスが目の前に転がっている。弱小国ながら、実質二人しかいないセンターバックが3試合そのまま使えるなんて僥倖はそうそうあるものではないのだ。こうなればあとはもう据え膳をいただくだけである。
もちろん勝ったら勝ったで、協会が「オカちゃんに監督続投要請」なんて余計なことをしでかしたせいで(ほんとに余計なことしか言わない会長だね!)素直に喜べない気もするのだが、おそらくこの2年半で自らのサッカーのコーチとしての限界をいやというほど味わったであろう岡田監督がその要請を素直に受けるとも思えず、また岡田監督がその程度の冷静な自己認識力はまだ保持していることはこの1カ月間の迷走で証明されたとも思うので、もはや後顧の憂いなく代表には頑張ってほしいものである。

(以下ネタばれかなりあり)

ヤクザ同士の抗争の果てに生き残った登場人物たちは、主に3つのタイプに分類できる。

1.勝ち組ヤクザ:三浦友和、加瀬亮
2.腐敗した警察:小日向文世
3.抗争の渦中から外れた者:中野英雄

この映画のヤクザの肖像はさながら「ジュラシック・パーク」の恐竜たちに似ている。好き放題の暴力沙汰に明け暮れているようでも、それは基本的に警察の管理下にあっての抗争であり、その中でかりそめに権力を勝ち取った三浦友和と加瀬亮にしても、いずれは誰かに殺害される運命にあるのだろう。汚職警官の小日向文世にしても「大文字の他者」そのものというよりも、それが機能するための補助的な役割を果たしているにすぎない。彼らはしょせん生存競争のメカニズムという「大文字の他者」にとっての駒にすぎず、この映画が強調するのはメカニズム=「大文字の他者」の酷薄さにほかならない。

漏れなく完璧に機能する「大文字の他者」、という主題はおそらく「ソナチネ」に至る北野の90年代の映画と同じ構図ではあるのだが、ただし初期の北野映画には「大文字の他者」に歯向かうドン・キホーテといったおもむきがつねにあって、それがあの草野球に象徴されるある独特のロマンティックな「遊び」、メカニズムが機能を停止する余白(辺境)を許していたのだし、それこそ当時の北野映画の最大の魅惑だったといっていい。そしてそれはたしかに9.11以前の――シアトルでの反グローバリゼーション闘争を頂点とした――私たちの生きる「世界システム」についての認識でもあったのである。

「アウトレイジ」にあってもまた、「大文字の他者」の戒厳令下にある時空間において登場人物たちは恐竜のテーマパークと同じようなある種の残酷な自由を享受しているのだが、しかしそれはもはやいかなる外部も辺境も許さないシステムの「内部」の遊びにすぎない。これが10数年前の北野の一連のヴァイオレンス映画との最大の違いだろう。そのことは最後に逮捕されたたけしの見詰める野球が「塀の中」で行われていたことが明白に示している。
「アウトレイジ」の細部がこれまでになく一種の「シネフィル」臭さ(映画史的記憶)を漂わせていることと、これは無縁ではない。実際、ここではたけしが「BROTHER」などと同じく物語上の主役を張っているとはいえ、しかし見せ場はむしろもっとずっとやくざ映画的な「キャラ」を演じる椎名桔平らに譲ったかたちになっている。椎名や杉本哲太はかつてのやくざ映画に登場したやくざキャラを人工的に現在に蘇らせた「クローン」なのである。とはいえ、しょせんクローンにすぎない彼らはかつてのやくざ映画的な振る舞いをただ機械的に真似るだけで、義理人情といったやくざ映画的行動理念とはほとんど無縁なままなのだ。

たけしが自首したシーンで、機動隊を引き連れた小日向文世が「一人でくるわけないだろう」とうそぶくのは、もはやドン・キホーテ的なファンタジーが許されるはずもない現在というやつへの自覚といえる。結局、たけしは獄中で中野英雄に「復讐」という名目で殺されるのだが――かつてのやくざ映画の「情念」である――、それもまた小日向が仕組んだメカニズムの作動の一部に過ぎないわけだ。

しかしいまや「大文字の他者」というのはほんとうに存在するのだろうか、というのが「アウトレイジ」に限らず、ポン・ジュノ「母なる証明」やジャームッシュ「リミッツ・オブ・コントロール」といった近年の犯罪映画に対するいささか深刻な疑問でもあるのだが。
(これについては「ユリイカ」5月号掲載されたポン・ジュノ論も参照されたい)