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2010年02月14日

●「インビクタス 負けざる者たち」

編集者のKくんに「「neo2(にょにょ)」の2って、キョンキョンみたいで80年代的ですね」と言われた。そうさど~せおいらたちは80年代に青春を過ごした時代遅れの人間さ。
あとライターのYさんに「もっとプロフィール欄を充実すべし」とアドバイスされた。もっともである。
今年あたりそろそろHPをちょっと改装してもいいのかな。

(ネタばれあり注意)

ヴァイオレンスや「傷」、あるいは「横たわること」といった主題論的視点からイーストウッドを追いかけてきた観客にとっては、そうしたイーストウッドの特異性がいっさい皆無なこの映画が、あまりにも平坦で取り付きようもないものに見えるかもしれない。
だが、少なくともボクにとっては「許されざる者」以降のイーストウッド映画の構造がいよいよあからさまに露呈してきたものに思える。
昨年の「ユリイカ」5月号のイーストウッド特集でボクは「奴隷の闘い――「スカイ・クロラ」vs「スペースカウボーイ」」という論考を発表したのだけど、そこでボクはコジェーヴを批判的に援用しながら「終わりなき「奴」の闘争」として90年代以降のイーストウッドを読み解いてみたのだった。
だが、今回「インビクタス」を観る限り、そこでの論点を変更する必要はまったく感じない。
大統領に就任したマンデラ(演じるのは「ミリオンダラー・ベイビー」のモーガン・フリーマンである)は、まさしく「主」との闘いを勝ち抜いた「奴」にほかならず、しかしなおも彼は闘い続ける。その闘争のフィールドが「スプリングボクス」と呼ばれるラグビー南ア代表である。
映画の冒頭でイーストウッドはまずラグビーが白人のスポーツであることを明示する。かつて南アの黒人は(マンデラ自身も含め)ボクスの対戦相手を応援するのが常だったが、いまやその態度は変更されなくてはならない、とマンデラは宣言する。
主との戦いに勝利した奴であるマンデラの説く黒人と白人の「和解reconciliation」とは、主と奴とのあいだの不本意な「妥協」を意味するのではまったくなく、むしろ新たな闘いである。それは誰かを敵として表象しえる戦いではなく、全員が全員に対する、みずからに内在的な敵との終わりなき闘争である。それはおそらく白人だけでなく、今まで味方だったはずの黒人をも敵に回しかねない困難で孤独な闘いであり、けっして中立的には機能しない(黒人と白人にとって異なる意味作用をもつ)ラグビーという競技がそれを表象しているのである。
「この闘技場でのとは株式市場における所有(オーナーシップ)と企業(マネジメント)のようなものであり、そこでの闘争は刻一刻と高下する株価の終わることのない変動である」。つまりここでのマンデラ大統領のとっての闘争とは、まさしくラグビーの得点経過によって表示されるものなのだ。
そしておそらくマンデラ=オバマの闘いとしてこの映画を観ることは、まさしくこれが「グラン・トリノ」、すなわち「オーナーシップ・ソサエティ」と自称したブッシュ時代からの訣別にも読める映画の次回作であることからも正当であるようにボクには思える。

ただしこの映画で唯一違和を感じたのが、マンデラがボクスのユニを着て決勝戦に登場するシーンである。事実を描いたものらしいが、しかしこれが人種の「和解」が排他的なナショナリズムへ転化する瞬間であることを、もちろん聡明なイーストウッドは(登場人物の口を借りて)周到に指摘してはいる。ただしこの排外性に対する批判が、少なくともまだイーストウッドの映画にはまだ準備されていないことに留意しておくべきなのだろう。