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2009年12月01日

●「イングロリアス・バスターズ」

NHK「チャイナ・パワー」という番組で中国映画が特集されていた。要するに映画の中心地がハリウッドから北京に移りつつあるというのだが、しかしそれは事実なのか?
映画というメディアが強力なイデオロギー発信装置であることはもはや常識に属すると思うが、現在の中国映画に「カネと物量」以外のメッセージを海外に発信する力があるとは到底信じられない。少なくともインタビューに登場していた中国映画界の中心人物たちにはそうした観点は一切存在しないようだし、むしろある種のイデオロギー的な背景から可能なかぎり逃避している(検閲?)ようにさえ見える。
つまり、中国映画の現在の興隆は持続的な影響力を保持するものではなく、単なるバブルの産物以外の何ものでもないということだ。だとすれば、それが中国国内および彼らの民族的紐帯を超えて(かつてのハリウッドやモスフィルムのような)世界的影響を及ぼすということはないだろう。ボクらがハリウッド映画の「普遍的」イデオロギー(というのは語義矛盾だけど)にあれほど魅惑されたようにはならないはずだ。もっとも国内市場が桁違いに大きすぎるので、このバブルはあと数十年続くのかもしれないけど。

(以下ネタバレあり注意報)

この映画の世界観では、ヒトラーはパリの映画館でゲッペルスらと惨殺されたためにナチス・ドイツは連合軍に降伏したことになっている(らしい)。
SFでもないのに、なんでそんな反・歴史的な事象を描くことが可能なのか。それにはおそらく近年のコスチューム・プレイ映画の位相が変化したらしいことに関わっている。
たとえばソフィア・コッポラの「マリー・アントワネット」がパリス・ヒルトンみたいなNYのヤンキーセレブとして演出されていたのと同じで、冒頭のブラピの演説はまるでラップのリリックのようだ。つまりリアリティを歴史的な表象に対する忠実度にではなく、スターの演技と存在感に依拠するのでもなく、演技する身体性への観客の同調に置いているのだ。この身体性に音楽が--ニューオーダーやデビッド・ボウイが--関わってくる。ただしこれは本質的にconformableな感性のスタイルである(「キャット・ピープル」も「ブルー・マンデー」もある意味で70年代のラディカリズムからサッチャー・レーガン時代への「転向」後の曲である)。
しかし逆説的だが、おそらくそうしたこの映画での方法論は「国家権力とは(一皮剥けば)ならず者の体制である」という(たぶん萱野稔人なら同意するであろう)歴史認識と図らずも一致する。「イングロリア・バスターズ」は民主主義体制の十字軍としての連合軍が単なる「ならず者」の暴力集団(国家の身体=暴力)であることを曝露しているのだし、それはナチズムでも同様である。

ただし後半(特に映画館でのミッションの進展において)、ちょっとありきたりな出来の良くないアクション映画ふうになってしまった。とりわけ黒人の撮影技師がナチの観客を館内に閉じ込めるためにドアを封鎖するシーンで、ナチの兵隊から何の妨害も入らないのはタランティーノらしからぬ単なる手抜きだろう。
しかし一番問題なのは、ほとんど終始一貫して主人公といっていいSS将校のサディスト的な表象である。つまりナチス・ドイツの本質がこうした連中に牛耳られた「ならず者国家」(ちょうどデリダ「ならず者たち」の邦訳が出たようですな)であるという表象は、むしろかつてのハリウッド映画が営々と築いてきた典型的なイデオロギーに他ならないからである。それに対してタランティーノの批評性がほとんど働いていないのだ。
だからこそ、ブラピ率いるユダヤ人独立愚連隊のクズどもが相対的に「ユーモア溢れる正義漢」にすら感じられてしまう程度のアクション映画に収まってしまっている(しかしそれはイスラエル国家の暴力の肯定を暗示するのではないか?)。ハワード・ホークスの「ヨーク軍曹」への言及があったけど、ブラピはむしろ「モンキー・ビジネス」のケイリー・グラントと大差ない無邪気なキャラなのである。

おそらくこの生温さがタランティーノをつねに人気監督としてランクさせている理由でもあるのだろう。もしも「リベンジャーズ・トラジディ」のアレックス・コックスが同じ題材で撮っていたなら、おそらくもっと明確に独立愚連隊すなわち「ならず者国家」としてのアメリカ(ウォーカー!)に焦点を合わせていたんじゃないかと思えるのだ。