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2009年10月12日

●「リミッツ・オブ・コントロール」

二日酔いを治すためには、8時間以上熟睡して翌日の朝食と昼食を抜いてさらに1時間以上半身浴をするのが一番良いことに最近気がついたのだけど、今日はお風呂につかりながら「気狂いピエロ」のベルモンドの真似をしてエリー・フォール「美術史」を読んでいた。
そこにあったティントレットに関する記述をそのままゴダールに捧げたくなったので、以下引用。

「ティントレットは反転したミケランジェロだ。彼はミケランジェロを見た、そして彼のようになりたいと欲したにちがいない。《ティッツィアーノの彩色とミケランジェロの素描》と彼は言った。しかしそのどちらにもならなかった。彼は決して完全に自分を支配することができなかったが、我々を驚かすのはその絶えざる敗北であり、それはミケランジェロにおいて我々を魅了するのがその絶えざる勝利であるのとおなじことである。彼はティントレットだったのであり、それだけで十分なのだ。それは非常に偉大な何かであり、そのため我々はその作品の入口で躊躇し、そのなかに入るのを恐れて、それを空疎で粗雑なものと見なしてしまう。彼は美術の奇跡のひとつであり、むき出しの裸の力のようなこの上なく優雅な何ものか、そして着飾ろうとする力のような俗悪な何ものかであり、ヴァザーリが言うように、《絵画がかつて見たことのない最も凄まじい頭脳》であり、獣的英雄である」(森田義之・小林もり子訳)

(以下、最近はネタバレもなく平気で映画を論じるようになってしまった)

ムービーウォーカーの観客レビュー欄に「おお、ムービーウォーカーの評価が低い!と思ったら、いつの間にかグラフが無くなったのですね」という評があったけど、この映画のあまりの低評価のせいで配給会社からクレームがきて詳細な掲載をやめた、なんてことはないんだろうね、まさか。
とはいえ、不良が人生論を説教するか、難病患者が人生の意味を再確認するような映画しか当たらない昨今の日本では、文字どおり「人生は無意味である」というテーマを語り、かつ表象している映画の評判が良いわけはないと思うのだ。この種の悪意はえてして理解されないものなのである。

人生に意味がない以上、映画にも意味がない。
この映画はベルトルッチ、コッポラ、ゴダール、カウリスマキ、とりわけヒッチコックから、もしかして鈴木清順と北野武、そしてもちろんジャームッシュじしんの「デッドマン」「ゴースト・ドッグ」まで様々な映画の「引用」を想起させる(公式サイトには「殺しの分け前/ポイント・ブランク」が挙げられている)のだが、じつはそれ自体にはいかなる意味もない。
しばしば「引用」とは(ゴダール「カラビニエ」にアレゴリー化されたように)過去の遺産を横領し「退蔵」するための手法なのだが、ここでの引用はむしろ「交換」のための記号(マッチ箱)にすぎないのだ(もちろん「時間イメージ」と交換するのである)。だからこの映画は前衛ですらない。前衛の美学とは意味の不透明性、つまり退蔵した「意味」に交換停止を命じる方法論だからである(このあたりについては「「新世紀エヴァンゲリヲン・破」」でちょっと論じた)。したがって「自分こそ偉大だと思う男」、つまりそれ自身で価値ある価値、もしくは超越的な価値の源泉は交換と流通の過程で抹消されなくてはならない。
この交換体系の悪夢のような透明性(王様は裸である)がかえって観客を戸惑わせるのだが、ここで想起するべきなのは様々なマニア向けの映画論では一切なく、おそらくリチャード・ローティなのだと思う。

(11.3追記)
知人に「何がローティーか!」と質問?されたのでここで補足しておく。
この映画では冒頭にランボーが引用されているように「ニヒリズム」が主題とされている(主人公には詩を辞めた後のランボーの面影がある)。
ただしジャームッシュは「ヨーロッパ的」ニヒリズムを「アメリカ的」なそれに「翻訳」してしまっている。筆者にはジャームッシュのそうしたセンスが「リベラル・アイロニスト」ローティに似ているように思える(まあ、ヴェンダースとの違いでもあるわけだ)。アメリカ的ニヒリズムには超越的な「真実」という重力があらかじめ欠如している(というかそれを「暗殺」するのが使命なのか)。
アメリカ的ニヒリズムとは、たとえばトーマス・ベルンハルトの小説のタイトルDer Untergeher(邦訳では「破滅者」、もちろんuntergehenという単語はニーチェの「ツァラトゥストラ」を踏まえている)が、英訳ではThe Loserとされてしまうような身も蓋もない新大陸的センスである。「想像力があれば敵のアジトに侵入できる」なんてセリフ、身も蓋もないという以外に何と評すればいいのだろうか。
もっともベルンハルトのほうはといえば、グレン・グールドの新大陸的なテクノ・マテリアリズムを「西洋の没落」に無理やり結びつけているともいえるのだが。