« 夏コミ新刊の中身のサンプルが | メイン | 8月だー;;; »

2009年07月29日

●「新世紀エヴァンゲリヲン・破」

本業が忙しいときはやたらとTVを見たくなるのだけど、今クールのドラマでは「猿ロック」くらいしか食指が伸びるのがない。芦名星は「鹿」よりヤンキーくずれのほうがハマってる。ちなみに月野さんは「官僚たちの夏」だそうです(キャストがオトコくさすぎてボクは見逃してました)。
BSのネイチャー系ドキュメンタリーも再放送ばっかりだし、放送大学も夏休みモードだし、で、結局ラーメンズのDVDを流しっぱなしにする毎日。
なにか適度に面白くて、仕事の邪魔にならない番組ってないかなぁ。

(特にネタバレないと思います)

今から10数年前、TV版の隠されたモチーフは「バブルの落とし前をどうつけるか」という点にあった。少なくともゲンドウやミサトのような大人たちのキャラ側から見た第三新東京市はバブルの廃虚であり、彼らは作品世界にメタレベルから介入しようとしていたのである。彼らはネルフの予算や工期についてしばしば言及する。「工業芸術を定義するのは、機械的複製ではなく、金銭に対し内的になった関係である」(ドゥルーズ)。世界はチルドレンの織り成す症候からなり、しかし大人たちの目論む症候の操作は(彼らもまた症候に過ぎない以上)ロジカルタイプの混乱によって内破せざるをえない。前衛劇もどきのラストの破綻はその必然的な結末だった。

いっぽう多くの視聴者は逆に症候に同一化することで、オタク的世界に内属しつつ肥大化した。TV版と旧劇場版(「Air」「まごころを、君に」)の異様な切迫は、当時のモダンからポストモダンへ移行する過渡期の二面性に引き裂かれたものだったが、その後10年以上続く「エヴァ」人気を支えたのはもちろん後者のポストモダン的な記号の世界だった。そこでのチルドレンは症候の自動運動として、あたかも鍋釜に手足が生えた平安時代の妖怪のような幻覚に等しい。もちろん妖怪の手足とは市場の論理を表象している。ITバブルの拡大に並行して「エヴァ」は遂にパチンコ業界にまでマーケットを拡大していったが、一般社会にはまだ「バブルの落とし前をつける」という主題が未解決のまま潜在していた(ドラマ「ハゲタカ」に見られるように)。

「破」の細密で執拗な描写が症候の自動化を加速し、技法的には驚くべき水準に達しているのは確かである。そのイントラフェストム(祭りの最中)的な高揚感は、ある意味で「ハルヒ」のエンドレスな夏休みと相補的なのだ。その内容が無限にエンドレスな夏休みを表現し、タイトル(8)が無限反復を表象したとしても、放映自体は無限ではない。それはある額面の紙幣なり証券なりが交換停止となる事態と同じである。資本主義市場はあたかも自身が永遠に存在するかのように振る舞うが、実際には永遠ではない。その自意識をあえて抑圧したのが「序」「破」といえる。ドラマはメタレベル性を整理され、その結果大人たちは単なるドラマの狂言回しに墜ち(その中では加持がかろうじて精彩を放っている)、レイのキャラクターは切迫感を喪失してしまった。もしTV版が今回のような物語だったら、率直にいってここまで伝説にならず、単なるSFアニメのワン・オブ・ゼムに過ぎなかったと思う。

以前、北野武「HANA-BI」を論評した際に、90年代後半にある映画史的転回が見られると書いた。映画は世界的にもはやモダンな表象を維持しえなくなり、前衛はポテンシャルを失って自滅した。「ソナチネ」以降の北野の変貌はその移行をいち早く体現していたといえる。「この男、凶暴につき」「3-4x10月」に比較して、「HANA-BI」の「いかにも出来のいいヒューマン・ドラマ」的な通俗性については詳論した。いっぽうで、その転回に自覚的に対処しえた数少ない映画作家にジャームッシュと青山真治がいる。この二人と北野を分かつのはイメージと音楽、映像と音の関係性に対する操作力の違いである。ほとんど「居直り」ともいえる音楽的鈍感さは、やはりゴダールを通過してこなかった映画作家の致命的な弱みなのだ。

今回の庵野秀明のセルフリメイクは、一面では北野の変貌を模倣しつつ、ただし時代的な切迫感の喪失には十分に意識的である。この喪失を代補するために、庵野はTV版23話までのストーリーに旧劇場版のプロットを圧縮させる(そこに不協和を醸し出す叙情的なリリックを乗っける)というサンプリング・リミックス的な方法論を選択した。しかもドラマの内容の水準での操作に失敗した「デス&リバース」に対して、今回のは単なるダイジェストに終わっていない。というか、すでに主題が変化しているのに素材を変えない(オリジナルな新作でない)ということ自体がそうしたリミックス的な方法論に基づいている。

しかし映画作家としての庵野の才能は、むしろ「破」がリーマン・ショック後の世界不況に並行して公開されたタイミングにあるのだろう。TV版がモダンの終焉を期していたとすれば、今回の「世界の終わりよ」というリツコの最後のセリフは期せずして症候的世界の壊滅を体現してしまっているからだ。