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2009年02月01日

●「我が至上の愛 アストレとセラドン」

今クールのTVドラマで見てるのは「ヴォイス」と「銭ゲバ」と「ありふれた奇跡」。その上「相棒」と「只野係長」があるんだ。TV見過ぎだ・・・。
「銭ゲバ」はちょっと面白かった。主人公の顔に付けられたスティグマは、あれは単なる「差別」の表象ではない。あの傷にしろ「ゼニ」へのこだわりにしろ、フェティシュというよりは機会原因的であり、彼はリアリストというよりアイロニストである。「カネのためならなんでもするズラ」とか言いながら、風太郎は「カネ」が「無」でしかないことを知っている。彼の復讐は「無に根こそぎにされ」(ツェラン)たことへの怒りに他ならないが、もちろん彼の復讐が達成されたのちに得られるのは、これまた「無」にすぎない。これは最初から仮象(=無)でしかないロマン主義的自己(シニシズム)の至る最終的な帰結である。だからこの主人公は、最近ニュースでよく見る自己処罰的な犯罪者たちとどこか似ているという印象を受けるのだろう。

(ボクの中では、ロメールは「木と市長と文化会館」で完結してしまった--EUの理念を体現していた--気がするので、その後のロメールの映画はよく知らず、したがって下記の印象は見当外れかもしれない。ネタばれというほどのものも特になし。ネットを検索していたら、「映画ライター」を名のる人間に「キワモノ」呼ばわりされていた。しかし映画の評価云々とまったく別の水準で、ロメールという監督に払うべき敬意というのは存在するのである)

女にもててもててしょうがない主人公は、それを理由に恋人からすげなくされたのに絶望して川に飛び込んで自殺を試みるのだが、城の王女に救われる。ところがまたその王女にも言い寄られて恐れをなした主人公は城を脱出、世をはかなんでただ一人、森の掘っ立て小屋で暮らし始めるのである。
主人公のもてもてっぷりは、ほとんど光源氏に匹敵する。彼の女装は不自然だが、要するにシェイクスピアみたいなものである。森の生活で「理性」を捨て、ただ過ぎ去った恋の思い出にひたる主人公の心持ちは「もののあわれ」というべきだろう。5世紀のガリアを舞台にした17世紀パリのサロン小説を原作とするこの映画は、フランス革命に至る理性的(反宗教的)フランスではなく、ローマ文明に汚染される以前の「古層」に存在するフランス文化の精髄を描いているのだ。しかもこの「精髄」とはドルイドの皮を被ったカトリシズムなのである。
もちろんそんなものは存在しない、というか、存在しないことをわかっててロメールは撮っているわけだ。だがこの「無」の存在を顕彰するというスタイルは、われわれにはけっこう見慣れた光景ではないか? 「虚妄としてのフランス」? もしかしてロメールがこれを「遺作」だと公言しているのは、小林秀雄が「本居宣長」に晩年を捧げたようなものなのか?
しかし、こうしたフランス人の屈折したナショナリズムに対して、「画面が美しい」とか「光がいい」とか口にするシネフィル(死語!)以外にどんな関わり方ができるだろう、と感じるのもまた確かなのである。観客が映画を選択するように、映画の方もそれを見る資格のある観客を選別する。例えばこれを「キワモノ」呼ばわりする無知で無教養で傲慢な日本人には明らかに見る資格がない。そういう人間は家で「銭ゲバ」を見ていればいいのではなかろうか。つまりボクがそうなんだが・・・。とはいえ、まあ、どっちも似たようなもんである。

ところで、今時のフランスも2世ブーム・縁戚ブームってやつなのですか? リヴェットの「ランジェ公爵夫人」はバリバールの娘とドパルデューの息子が主演だったが、ロメールのヒロインもユルスナールが大叔母(つまり祖父母の姉妹)に当たるんだとか。つまりDAIGOみたなものね。こーゆー「銀の匙を咥えて生まれてきた」はなしを聞くと、ほんとうにもう、人生が航空機のフリーフォール状態な現在のワタクシには、気分は風太郎な感じである。とはいえ、エコノミークラスの単なる一乗客としては、現実にはいかんともしがたい。ファーストクラスの客向けにはゴールデンパラシュートが用意されているのだろうけど・・・。結局誰の人生だって、生まれたときから落下中のヒモなしバンジージャンプにすぎない、とか今から達観しておくべきだろうか?