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2009年01月20日

●「セザンヌ主義」@横浜美術館

vsイエメン戦があるのをすっかり忘れていて、TVをつけたらすでに1点先制してた。まあそんなもんでしょ。
それより、「東京新聞」朝刊の「こちら特報部」は最近なかなか鋭い企画が多くて読ませるけど、今日はJリーグ秋冬開催への動向を特集していた。正直、代表戦よりこちらの方が日本サッカー界にとって重大な問題だったりする。現会長は小泉元首相を模倣したような大向こうを狙ったパフォーマンスが多すぎるんだけど、この問題でも「郵政民営化」のそれに似た、ポイントを単純化して課題を隠蔽する例のやり口はかなり気にくわない。秋冬開催は東北・北海道のサッカーを見捨てることと事実上同義だが、実際にそうなってからでは取り返しが付かないのは「格差社会」問題と同じだろう。

静物画とは林檎や皿や水差しや花といった登場人物たちによる「演劇」である。とりわけ装飾から自立したアレゴリカルな事物となったカラヴァッジョや17世紀オランダの静物以降、シャルダンの日常性を経て、絵画は人間よりも内省的な(「没入」した?)静物=人物を舞台=テーブルに上げてきた*のだが、セザンヌはそれに一種のパラダイムの転換を与えた。セザンヌによって静物=人物たちは「演劇」から「群舞」へとモデル・チェンジしたかのようなのである(セザンヌの白い布や紙による演出に顕著に表れている)。
それはもちろんセザンヌ「水浴図」からマティス「生きる喜び」へという系譜にも並行的に見出されるのだが、広義にはクラシック・バレエからニジンスキーの「春の祭典」へ、フランス革命からロシア革命へというパラダイム・シフトを先取りしていた。セザンヌの果物たちは「セント・ヴィクトワール山」の山塊と同様、来るべき「革命的潜勢力」を担っていたのである。
しかしセザンヌに学んだという今展覧会の日本の近代美術の画家たちの大部分は、絵画のこうした「演劇性」にきわめて鈍感だったように思える。だから今となってはどれもくすんだ黄色の古ぼけた色調がただのオヤジの骨董品にしか見えないのだが、しかしその中にあって岸田劉生のみは「静物画という演劇」に自覚的だったのかもしれない。ボクのような素人に岸田の画面が際だって見えるのは、絵画の技巧というよりむしろその(「ブルジョア演劇」という意味において)卓越した演出力によってなのだ。
(*ここでの「演劇」モデルはマイケル・フリードの「シアトリカリティ」には関係ない。というかむしろ真逆かも)

・・・とまあ、オバマ米大統領就任の夜にそんなことを感じたのだった。