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2008年11月23日

●「ハッピーフライト」

アーセナル、壊滅・・・。20歳そこそこのメンバーで固めた弱みがついに一挙に噴出してしまった感じ。調子に乗っている時はイケイケなんだけど、怪我人が多発しチームのリズムが狂うともう調整できる人材がいない。こういう時にこそ経験と人望のあるベテランが必要なのだが、今回はキャプテンが率先してコワれちゃったものなぁ。20代前半の才能ある青年たちが「オレがオレが」になるのは仕方がないけど、そいつらのアタマを押さえられる人間力(!)のあるタイプが今のチームに皆無なのである。これはベンゲルのチーム設計の深刻な失敗というしかない。なんとか今シーズンも4位以内を確保してほしいものだけど・・・。

(以下ネタバレあり)

1970年代に航空機や高層ビルや客船を舞台にした群衆劇--いわゆる「パニックもの」というジャンルが流行って、この映画もいちおうそのあたりに発想の起源があるのかな。でも、印象がまるで異なるのは「ハッピーフライト」がコメディであるという以上に、登場人物に「悪人」がいっさい存在しないという点にある。
パニック映画の場合、事故の原因がたいてい犯罪であったり過失であったりと人為的なのだが、なにせこっちには犯罪の影はおろか、たんなる過失すら見当たらない。しかも犯罪者(犯人)という意味だけでなく、キリスト教的な意味での傲慢とか強欲とかの「7つの大罪」を背負った人々(「タワーリング・インフェルノ」はバベルの塔の隠喩だった)さえ見当たらず、せいぜい普通より多少怒りっぽい乗客が登場する程度である。
それでも2時間近く飽きさせずに見せるのは、空港の現場をよく調べて書かれた脚本の出来とともに、ほとんど一筆書きでキャラ立ちさせる矢口史靖監督の手腕である。だからパニック映画というより、これはむしろ旅客機を「舞台」に見立てた一種の「バックステージもの」と考えた方がいいのかもしれない。舞台であればこそ人物造型の類型性はプラスに働くのだ。
ただし陰謀や秘密がないぶん、いかんせんドラマのメリハリが薄いのは致し方ない、というか、類型的でありながら不思議とイヤミがない。それはむしろこの監督の「倫理」のようなものなのだろう。たとえば田畑智子が最後にお目当ての男性と再会することができるのだが、その再会のシーンというのが、相手が遠くに立っててかろうじて目印の黄色いバッグで彼と判別できる程度なのである。
このほとんど反時代的なまでの品の良さは、やはりなにものかではあるのだ。