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2008年10月29日

●「トウキョウソナタ」その他

【事務連絡:10月31日から11月3日まで旅に出ています。その間メールでご連絡を頂いた方には3日以降にお返事いたしますのでご了承ください。】

最近はサッカー自体よりも、サッカーを取り巻いている環境のほうについ興味が向かってしまう。もしシーズン中に優勝争いにからんでいるチームが倒産したら、勝ち点計算はどうなるのだろう? とか、2010年はほんとうに南アフリカで開催できるのだろうか? とか。
実際、日本協会は先日「日本のスタジアムは現在の開催規定を満たしていないから代替開催は無理」と早々と発表していたが、よく考えるとこれはアヤシイ。これはむしろ「規定を変更しさえすれば、開催の準備は内々に進めておきますよ」というFIFAに対する暗黙のメッセージのように聞こえないだろうか。
ただでさえ遅れている南アのスタジアム建設が、この状況下でホントにどうにかなるとはやっぱり思えないのだし、となると、二度続けてUEFA領域でW杯を開催することはFIFAの政治力学上ありえず、南米も経済・治安上の問題が大きい。つまり現在の規模の大会を代替開催ができそうなのは日本かアメリカしかない。すでに電通内部じゃその場合の予算やスケジュールを内密に検討しはじめていたりなんかして。まあ、それ以前に日本代表がアジア予選でしくじったら大笑いですが。

ところで、某サッカーサイトを読んでいたら「マラドーナ、アルゼンチン代表監督就任へ!」というニュースを読んで、ジュースを吹き出しそうになった。とうとうやっちまったなアルゼンチン!!

(以下ネタばれあり)

息子が親に逆らって戦場に向かい、神童がピアノ(ドビュッシー「月の光」)を弾くシーンで終わる映画を黒沢清が撮ったとあっては、まずはゴダールの「フォーエヴァー・モーツアルト」を連想するのが筋というものだろう(実際、エンドロールにその痕跡がありあり)。だが、両者の内容がかくも真逆なのもあからさまである。
黒沢らしからぬ今回の脚本は(控えめに言って)洗練不足。あと2~3回推敲するか、プロの脚本家に書き直してもらったほうがよかったと思うが、問題はそんな技術的なことだけじゃない。ゴダールが語るのは、ヨーロッパ的な「否定性」(ユーゴ紛争の虐殺=映画監督の「ノン」の連続)の果てに「恩寵」のようにモーツアルトが降ってくるという、ある意味で典型的にドイツ=プロテスタント的な近代の論理なのだが、「トウキョウソナタ」では最後に自動車にひかれた香川照之がむっくり起き上がって(「復活」の象徴)、リストラされて仕方なくやってる清掃員の格好のままで家庭に戻るのである。つまり「ありのままの自分でいいんだよ」という「戦後民主主義」的というか「相田みつを」的(!)な主張なのだ。その上「アメリカが正しいわけじゃないってわかりました」って・・・。そんなのを「希望の片鱗」と呼ぶのか? マジなのか、黒沢清?
ボクもいい加減20年以上も黒沢清の映画を見続けてきたわけだけど、「この人、ホントはなんにもわかってないんじゃないか・・・」という疑問が今回の映画に関してはフツフツと湧き上がってくるのを押さえきれなかったのだった。