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2008年10月16日

●「アキレスと亀」

今、リアル世界は「エヴァ」に喩えると(!)どのあたりなんだろうか。たぶん映画版25話「Air」の、マギへのハッキングを赤城リツコ博士の666プロテクトでかろうじて阻止した状況で、冬月がゲンドウの耳元で「これはまだ前哨戦にすぎんぞ」と囁いてる感じである。本格的な戦い(戦自による本部の直接占拠)はまだ始まっていないのだろう。
ついでに「AKIRA」で考えとくと、地下の冷凍庫から地上に這い出してきたアキラくんを軌道衛星からのレーザー照射でメチャクチャ攻撃するものの、結局行方をロストしてしまうあたりか。いずれにせよ本格的な破局は(数ヶ月後か数年後かわからないが)まだ少し先にあるような気がする。

(以下ネタバレあり)

この映画の時代設定や小道具の目眩がするようなデタラメさは意図したものだ。主人公・真知寿の少年時代は昭和初期なのか昭和40年代なのか意味不明であるが、この錯乱さ加減が映画に登場する数々の絵画もどきと「類比的」なのである。
しかしわざととはいえ、北野の絵はやはり見ていて腹が立つほどヘタ。今や「現代の偉人」と呼ばれてもおかしくない北野武が「売れない芸術家」を演じてみせるというナルシシズムには、映画作家としての教養の欠如しか感じられない(イーストウッドにおける音楽や、ゴダールにおける文学と同じ水準で、北野における絵画を論じられるか考えてみればよい)。もっとも北野にとっては、それもまた意図なのかもしれない。わざとヘタに描いたクズ絵を世間がもっともらしく解釈すれば、それはそれで「王様は裸だ」と知っててやってる北野の勝利なのである。

まあ、絵の巧拙は別にして、真知寿の絵画遍歴は、印象派もどきキュビズムもどきからはじまりバスキアもどきにいたる20世紀絵画史のわかりやすい反復ではある。しかし、じつはここから排除されている系列がある。アクション・ペインティング以外の「抽象表現主義」(ニューマンやロスコ)である。あとマレーヴィチやデ・スティルも無視。
こうした北野の嗜好は、そのまま今の日本人の抱く「現代絵画」のイメージである気もする。つまりspeculation(思弁=投機)の排除。日本人にとって「芸術」とは、ちょっと知能や感情に障害のある人たちによる非・知性的で非・社会的なパフォーマンスなのだ。(誤差を覚悟で言うと)一種の「アウトサイダー・アート」のごときものである。むろん実際の「アウトサイダー・アート」に思弁=投機が欠けているはずがないので、むしろ日本的聖性の系譜(ひじり)というほうが正確なのかもしれないけど、要するに日本社会において芸術家とは「山下清」のごとき存在を指すのだ。「アキレスと亀」も、だからこれは一種の日本的な聖人伝なのである。

speculation思弁=投機に対する潜在的な憎悪。おそらくビートたけしのマンザイや話芸の底流にも通じるこうした憎悪は、いわゆる「庶民」の「知識人」に対する不信、ということになるのだろう(意図した「教養の欠如と下品さ」とはそういうことだ)。たとえば村上隆は良くも悪くもこうした日本の芸術の置かれた場所(「悪い場所」?)に十分に自覚的であって、それに対する反-動として「芸術」に投機という価値を介入させた。ただしそのパフォーマンス自体はやはり日本社会と芸術の関係性を転倒させただけで、「批判」と呼ぶにはもう一つのspeculationを欠いていると思う。
映画の結末で、真知寿は自分で20万円という値を付けた燃えかけた空きカン(オブジェ)を何の未練もなく蹴り捨てる。この映画が予言するように、芸術=投機はこの大恐慌目前ともいえる状況でやがて躊躇いもなくうち捨てられるだろう。しかし日本の芸術に真に欠けているのは、それでもやはり思弁=超越の機縁ではないのか。

(追記:粉川哲夫氏は、北野には「21世紀アートの先端(たとえばラジオアート)はむろんのこと、20世紀アートのゆきついた(ふき溜まった)ところに位置する「メディアアート」などへの目配りはない」と記している。http://cinema.translocal.jp/)