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2008年09月06日

●「崖の上のポニョ」とかvsバーレーンとか

心配されているバーレーン戦だけど、ボクは意外と完勝してしまうのではないか、と予想している。しかしそれが果たしていいことなのか、と問われると、話は別である。
現在の岡田ジャパンはもはや「層の薄くなったジーコジャパンの2番煎じ」というしかないが、もし中村俊輔という換えの利かないプレーヤーが不在になったらいったいどうするつもりなのだろうか?
俊輔はもともと腰に爆弾を抱えている上に、年齢的にも大きなケガをいつ負ってもおかしくない30歳である。特に今回の最終予選は1年間の長丁場であるだけに、そのリスクは高い。おそらく監督にはその非常時を乗り切るプランはないんじゃないか。

(公開2カ月目だしもういいかとも思ったけど、以下いちおう念のためネタばれあり表示にしておきます)

動物を擬人化する物語の欺瞞は「食事が共食い(=食人)」を隠蔽している点にある。だから逆に童話のプロットをそこだけに焦点化した宮澤賢治の独創性が際だつのだが、もちろん「もののけ姫」までの宮崎駿もまたそうした倫理的センスの持ち主だった。しかし「ポニョ」の登場は、まさに魚らしき生き物にぱくっと食らいつくシーンからはじまるのだから、「今回はその手の道徳的リミッターは外しますよ」と宣言しているに等しい。
だとしたら、主人公の坊やの母親の行動が(町山智浩氏ほかが正しく指摘するように)1から10までデタラメで、ただひたすら頭のおかしいオンナであったとしても、それはもう批判の対象外というものではないだろうか。彼女の行動は物語を転がすためのご都合主義にすぎないのだが、しかしそれこそ今回の宮崎駿の狙いなのであろうから。
なにしろ陰に陽に現れるワーグナーへの言及を耳にすると、ポニョが波の上を走っているシーンで「地獄の黙示録」のロバート・デュバルを連想するしかないのであって、というか、宮崎駿自身がサーフィンをするためにベトナムの浜辺の村を空爆するキルゴア中佐そのものである。
おそらく、この物語自体にはほとんど意味はないのだ。いかに「地球の危機」というプロットがとってつけたようであろうと、エンディングが尻つぼみであろうと、要するに波乗りとはそういうスポーツなんである。観客は、ただもう古き良き手書きセルアニメのバクハツする呪術的ドライブ感を楽しめ、と宮崎駿に指示されているようなものである。そしてその空虚でラディカルな演出を楽しみつつ、「ああ、ハヤオは身をもってゴローのしみったれた小市民的倫理観にダメだししたかったのだろうなぁ・・・」などと空想してみるしかないのである。
ただし一観客としては、別の映画で「ティーチャー」と呼ばれる天才老人とその凡庸な息子が繰り広げる数十億円単位の壮大な親子げんかをスクリーンで見せられても、ただ困惑するしかないのである。