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2008年08月28日

●「スカイ・クロラ」

(大したネタばれはないけど、念のため以下ネタばれ少々あり)

「押井守は時代を読み損ねている」とネットに誰かが書いているのを読んだ記憶がある。押井は現在の若者にむけてこの映画を創ったというけど、彼らが苦しんでいるのは「成長もせず死にもしない」という悪しき無際限(悪循環)ではなく、貧しさの有限性のようなものなのに、と。
確かに「キルドレ」たちは(現実のわれわれよりもはるかに)恵まれた生活を送っているようだし、むしろ実際の「生活」というのは華々しい戦闘機乗りというよりも、その戦闘機の整備工場へネジかなんかを納品する小さな町工場の臨時工あたり(もちろんそんな連中はこの映画に登場しない)にアナロジーするべきものだろうから。
そもそも「キルドレ」たちの戦争には市民への無差別爆撃も「誤爆」もなさそうだし、現実の米軍のやり口なんかよりよほど正義に適っているように見える。戦争したい者同士が戦争し、殺し合いたい者同士が殺し合っているだけなら、それはそれでいいんじゃないだろうか。何か問題でも?

・・・おそらくこうした批判はほぼ正しいんだけど、ただしこの映画はむしろ押井自身の内面を素直に表現している、と考えた方がたぶん面白いと思う。「キルドレ」たちというのは、現実世界では40~50代の大人の主観が捉えた自画像なのだろう。「大人になれない」と感じるのは子供たちではなく、むしろいい年をしてアニメなんか見てる(創ってる)われわれ自身の感慨である。

われわれは日々労働している。しかしそんな労働の実態など、ほんとうは高校生の娘や息子たちにだってできる馬鹿げたものであることはうすうす判っている。今や仕事に求められるのは「スキル」という平準化された能力のみで、「経験」や「伝統」といったものに何の価値もなくなってしまったからだ。それでもわれわれは働き続ける生活しなくてはならないからだ。生活する、というただそれだけのために、われわれは日々このくだらない労働に精を出し続けるふりをし、その仕事にしがみつくというただそれだけのために、自分の下劣さや卑劣さを良心と一緒に安酒で喉の奥に流し込む。
そうした無意味な労働を、自分が死ぬまで続けなくてはならず、自分が死んでも代わりの誰かがやり続けるだろう。無意味な仕事、無意味な生。そして世界は続く。
「キルドレ」というSF的な設定を剥いでいけば、この映画が語りかけてくるのはそうした中年の生活者のありふれた感情であるだろう。
「老いることがない」というのは要するに「分業」と「疎外」の一様態なのだが、その抑鬱的な陰鬱さを表象しているのがプロペラ機による空中戦という古風でロマンティックなギミックであり、つまりこの映画の主人公とはカンナミではなく、むしろノスタルジーに満ちたCG映像が表象する「世界観」そのものである。ノスタルジーとしての機械とは、それが機械として機能していないという意味だ。子供のままで生きるボクらと年老いた世界、というのは正確にわれわれ自身の反転した鏡像なのである。実際にはそれはこう語っているのだ、われわれは老いてしまった、しかし世界はなぜか自分たちが子供の頃のままであり続ける・・・。

だから「スカイ・クロラ」は「老い」をテーマにしたアニメであり、「老い」こそ宮崎駿=「ティーチャー」が唯一描くことのできなかったテーマなのである(しばしば登場する老賢者たちは、あれは「賢者」という役割を演じているだけだ)。じつは前作「ハウルの動く城」こそ「老い」と正面から向き合おうとしてなしえなかった唯一の宮崎作品なのだが、その意味で「スカイ・クロラ」は「ハウル」のリメイクにほかならない(「ティーチャーを撃墜する」)。
「ティーチャー」は大人になった唯一のパイロットであり、「老い」とも「若さ」とも無縁の有能なミドルエイジである。おそらく彼は仕事と人生の有意味性を確信している。彼はためらいなく「キルドレ」の乗った戦闘機を撃ち落とすだろう。その男との最後の戦いに赴く前に、カンナミは最後に草薙に向かって「生きろ」みたいなことを言う。あれは(宮崎駿的な)次世代の子供たちに向けたメッセージなんかであるはずがなく、むしろはっきりと同世代の組織人にむけたメッセージである。無意味な労働と生であっても、われわれはそれに耐えて生き続けなればならない、という。つまり押井の呈示するモラルというのは(あの気狂いじみた宮崎駿のそれと異なって)意外と凡庸な中年の生活者の感傷なのだ。「いつも通る道でも、違うところを踏んで歩くことができる」。そして押井守はおそらく正しいのである。

なお、ラストについて一言。原作を読んでないから断言できないけど、あれは(ボクら「キルドレ」世代にとっては)萩尾望都の偉大な傑作「A-A’」(1981年)なんだよなぁ・・・(あっちは「キルドレ」ではなく「一角獣種」だったけど)。つまり悪循環とそこからの放下という(その後の押井「ビューティフル・ドリーマー」的)問題は、実質的にこれと「銀の三角」がすでに準備していたのである。