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2008年07月31日

●『歩いても 歩いても』

一昨日の晩、つい朝まで過ごしてしまった。
しかもその翌朝から客先と会議があるというのすっかり忘れて飲み倒していたので、明け方ふと正気に戻って慌てて帰宅、2時間ほど仮眠を取ってシャワーを浴びて出掛けたのだった。
会議中、冷や汗が尋常でないほど流れ落ちる以外には特に問題なかったはずだけど、もしクライアントに陰で「あの人なんだか酒臭かったですね~」とか言われていたらどーしよう、といまだにちょっと不安。

で、それ以来すっかり体調と頭の調子が狂ってしまったので、本棚から「エロイカより愛をこめて」を掘り出してパラパラめくってみたり、ゴロー作「ゲド戦記」をかけ流したり、ただひたすらダラダラ過ごす。頭の中で「ポニョ」の歌がひたすらリフレインしてて気持ち悪い。
今は浦和-バイエルンを見ながらこれを書いている訳ですが(現在1-4とボコられてる。情けない)、試合が終わったらもう寝てしまおうかなと。なお「ゲド」については、ここではノーコメントです(笑)>月野さま

(以下、特にねたバレというほどのものはありませんが、ダルいので手短に映画の感想を備忘録がわりに残しておきます)

是枝裕和の映画のキモは、観客に対してある一般的なモラルの水準を確実に想定させる点にある。
ドラマはおのおのの登場人物の言動がその基準を下回ったり上回ったりすることで形成される。そこでモラルの水位の差異が情動として表象(記号化)されるのだが、その記号を操作することが是枝の演出の一切である。
これは小津映画のようなモダニズムとは決定的に異なる。方法論としてはむしろ村上春樹の小説と酷似しているのだ。
ある不在の記号(この映画では死んだ兄)と諸表象との距離がある文脈を形成し、最終的に不在という意味に回収される。その意味伝達の精度において是枝の手腕は際だっている。それが彼の映画の、一見文芸映画ふうでありながらつねに一種のわかりやすさを醸し出す(観客が感想を語りやすい程度に整理されている)理由である。
要するに是枝は頭がいいのだ。言い方を変えれば、これは典型的な「シナリオによる映画」である。是枝の撮る映像のつまらなさの理由がそこにある。

ボクがこの映画で唯一心が震えたのは、子供部屋の壁に残っていたジョイ・ディヴィジョンのポスターだった。ボクはニューオーダー世代なので、亡くなった長男はおそらくボクより2つ3つ年長なのだろう。その細部の風俗性が、是枝的な意味論に回収し得ない歴史性をかろうじて露呈させていたように思う。