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2008年07月08日

●賢人とバカとドレイ

昨今の洞爺湖サミット関連ニュースを見てて思いだしたのが、竹内好が引用したので有名な魯迅のこの寓話。
曰く

「ドレイは、仕事が苦しいので、不平ばかりこぼしている。賢人がなぐさめてやる。「いまにきっと運がむいてくるよ。」しかしドレイの生活は苦しい。こんどはバカに不平をもらす。「私にあてがわれている部屋には窓さえありません。」「主人にいって、あけさせたらいいだろう」とバカがいう。「とんでもないことです」とドレイが答える。バカは、さっそくドレイの家へやってきて、壁をこわしにかかる。「何をなさるのです。」「おまえに窓をあけてやるのさ。」ドレイがとめるが、バカはきかない。ドレイは大声で助けを呼ぶ。ドレイたちが出てきて、バカを追いはらう。最後に出てきた主人に、ドレイが報告する。「泥棒が私の家の壁をこわしにかかりましたので、私がまっさきに見つけて、みんなで追いはらいました。」「よくやった」と主人がほめる。賢人が主人の泥棒見舞にきたとき、ドレイが「さすがに先生のお目は高い。主人が私のことをほめてくれました。私に運が向いてきました」と礼をいうと、賢人もうれしそうに「そうだろうね」と応ずる」という話。

あまりにそのまんまな構図なので、かえって笑ってしまう。
言うまでもなく「賢人」とは国際政治や経済を操っている(つもりでいる)G8首脳や閣僚、役人連中。解決するつもりもない「食糧問題」なんぞを議題に挙げてお茶を濁していますね。飢餓と貧困をなくしたいんだとか。「いまにきっと運がむいてくるよ」とか言って。
いっぽう「バカ」は特に理由もないのにそこにいるだけで警察にボコられているデモ隊の皆さんで、「ドレイ」はその他大勢のわれわれ。「ドレイが大声で助けを呼ぶ」仲間の「ドレイ」とは警察のことで、「主人」(日本政府)に報告する「ドレイ」とはマスコミのことである。
そういえば(別件だが)日経の記者が活動家に「バカ」ってメールを送ったってニュースもあった。その記者は正しい。そのメールに「ドレイより」と署名していればもっと正しかっただろう。あと「警察がんばれ こんな糞偽善者集団などさっさと排除しろ!!」とか書き込んでるネットの人とかね。
なるほど日本は昔も今も「ドレイ」の国である。

ちなみに竹内は「後進国」的な(「抵抗」が強いという意味である)中国に比べて、日本の先進国性をどこか後ろめたく感じていたようだが、なに、あと10年も経って日本の下層階級が中国に出稼ぎに行くようになれば、ホンモノの「奴隷」として使役されるようになる。
そうなった時、日本人は初めて「ドレイ」根性から脱却できる(「東洋的抵抗の契機」を手にすることができる)のではないだろうか。希望を失うことはないのである。

P.S.
竹内読みの知り合い(というか先輩)からさっそくメールで批判が届く。以下、そのまま引用しておきます。

「「ネットの人」にとって「特に理由もないのにそこにいるだけで警察にボコられているデモ隊の皆さん」は「こんな糞偽善者集団など」であって「バカ」ではない。そう、「バカ」ではないのだ。したがってまた「日経の記者」が活動家を「バカ」となざしたとしてもそれは、少なくとも魯迅の話に出てくるようなバカであると「日経の記者」は思っておらず、だから、「その記者は正しい」という認識は間違いなのである。

 洞爺湖サミット関連ニュースのなかに登場するのは「賢人」と「ドレイ」と、あともうひとつは「一見バカにも見えるが本当のところは『賢人』もしくは『ドレイ』」であって、だから、実は「あともうひとつ」はなく、「賢人」と「ドレイ」だけである。したがって、「洞爺湖サミット関連ニュース」は「竹内好が引用したので有名な魯迅のこの寓話」よりも悲惨である。そこでしかし、とてもではないが笑えない、ということだけができるわけではない。さらにかえって笑ってしまうという有り様も、否定されるものではないからだ。」

「「日本の先進国性」という言葉は初見であるが、竹内のタームに引き寄せるとすればこれは「近代主義」という、たぶんお馴染みの言葉になるのだと思う。というか、このこの近代主義(と、ここではカッコを外しましたよ)という言葉がこの書き手においてただちに想起されなかったことが、少しく不思議に思われたことでもあるのだが。そして、竹内にとってそれは「日本の先進国性をどこか後ろめたく感じて」いら
れる程度のものではなかったことも、多少なりとも竹内を読んだことのある人間にとっては自明のことであって、竹内はこれをはっきり、「救われないドレイ根性」と書いたのだった。」