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2008年06月06日

●「愛の共同体」としてのトヨティズム

「日本vs西欧」という問題系が現在では滑稽に感じられるのは、以前も書いたけど、高度経済成長期が終わって「西欧のキャッチアップ」という主題がリアリティを失ってしまったからだ。道元はデリダに似てるとか、奈良の仏像はミケランジェロを超えてるとかいう評論は、べつに哲学でも批評でもはなく単にイデオロギー的な言説にすぎない。もちろん田邊元はドゥルーズであり西田幾多郎はラカンであるという中沢新一の『フィロソフィア・ヤポニカ』(集英社)もとりあえず(この人の他のすべての著作と同じく)単なるイデオロギー的言説にすぎないとは言える。

とはいえ中沢の言説は、例によってそれなりに流石な洗練を示していて、まるでこの試みの半分は的を射ているかのようだ。田邊元の「類」と「個」の間の中間的(天使的!)な「種の論理」は、「深層」でも「高所」でもない「表層」の論理(『意味の論理学』)に、なるほどかなり似ているように説得されるのである。
ただし、それでもやはり両者は(田邊のテキストを中沢がどれほどドゥルーズを下敷きに改変したにせよ)せいぜい49%の類似に過ぎないというべきだろう。なんてったってドゥルーズは、「表層」のルイス・キャロルのすべてとだってアルトーの1ページたりとも譲りわたさない男なのだ(その意味で中沢が参照するのが『差異と反復』のみなのは示唆的だと思う)。

「田邊元は、国家は人類的国家であることをめざし、民族国家であることを自己否定していく存在である、と考えたのである」(第5章個体と国家)と中沢は記している。要するに田邊の思考とは、一民族国家を脱皮し白人の帝国主義に対抗するもうひとつの「帝国」=「大東亜共栄圏」の論理にほかならないわけだが、しかし中沢は「種」としての「民族」を、自主自由な「個」によって「「種」に内在する不平等性を否定」し、「類」としての「人類的国家」へ飛躍する、という展望を与えるのである。中沢がここでネグリ・ハートの「帝国」を意識していない、と考えるほうが難しい。なるほどレーニンね、と。

中沢新一が『フィロソフィア・ヤポニカ』を「すばる」に連載していたのは1999~2000年という時期だったが、周知のように彼はこの時期「愛知万博」のプロデューサーでもあった。
田邊元の思想は(西田幾多郎的な)家族共同体的ならざる「愛の共同体」である、と中沢はいう。だとしたら、日本の企業が世界に誇る「小集団活動」こそそれに相当するのではないか。しかも万博のイデオローグの背後にいたのは、日本企業でほとんど唯一一人勝ち状態の(つまり「日本vs西欧」を真顔で口にできる)「世界のTOYOTA」さまである。トヨタさまにおかれては、つい最近まで「小集団活動」に賃金を払っていなかったのだが、もちろん社員同士の「愛」に基づく自主的活動なんぞに会社が賃金を支払う理由はないからである(でも活動への貢献度が昇進・昇給には影響したというのだから笑わせてくれる。さらにトヨタが下請け企業にどれほど横暴に振る舞い無理を強いているかは、最近の「東京新聞」の連載記事「結いの心・トヨタの足元」を参照)。
おそらく田邊=中沢の「愛の共同体」には、満州国の「五族協和」的な「愛」を否定する機縁はないだろう。田邊=中沢は、ここで自らのイデオロギーが現実を隠蔽する瞞着以外の何者でもないことを吐露しているに等しい。「大東亜共栄圏」をなかったことにしたい日本人に「マルチチュード」を夢みる権利がないのと同じように、「オウム」をなかったことにしたい中沢新一にはやはり「天使」を夢みる権利はないのだ。なぜか。また同じ失敗をやらかすに決まっているからである。