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2008年04月21日

●安田講堂と本願寺

コジェーヴによる「スノビズム(江戸期=ポスト歴史)」論は、近年では『動物化するポストモダン』の東浩紀や『ポストフォーディズムの資本主義』パオロ・ヴィルノによって「ポストモダン」という概念の論拠の一つとされている。89-91年以降の状況についてはむろん様々な議論があるだろうが、しかし江戸期の「形式化」された価値観=スノビズムというアナロジーはどうして成立したのだろうか。

おそらくこの問いは、江戸期の「形式化」とはどのような社会構造の変化によって成立したのか、という議論に敷衍できるはずだが、それを生産様式の視点から考察できないか、ということを最近考えている。
アントニオ・ネグリは『さらば、“近代民主主義”』で「形式的包摂」から「実質的包摂」への移行を近代-ポスト近代の閾に挙げているが、経済史の安良城盛昭(最近『天皇・天皇制・百姓・沖縄』(吉川弘文館)が復刊された)によれば、「太閤検地と石高制」を機に中世的な荘園制=「家父長的奴隷制」から幕藩体制=自立した小農民の直接支配(「農奴制」)に移行した、とされる。
おそらくこの「革命」によって(「地代」を「捕獲装置」と呼んだドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』に倣っていえば)荘園制度の最終的な解体=「脱領土化」がなされたのであり、スノビズム=「形式化」の起源はこの「脱領土化」による「条理空間」化と軌を一にしているはずである(その背景には西国を中心とした米等の流通の拡大=「平滑空間」がある)。

しかし重要なのは、「脱領土化」によって解体したのが荘園だけでなく、寺社勢力や一向一揆といった古代・中世以来の「アジール」(網野善彦)も壊滅もしくは再編成(「捕獲」)を受けた点にある。こうした「アジール」に起源を有する能や茶道が「スノビズム」と化したのは、秀吉による千利休の切腹という事件以降ではないだろうか。
また、延暦寺や本願寺に拠った僧侶勢力は信長と秀吉によってほぼ壊滅せられ、実質的な独立を失った。これ以降、拠り所を失った日本の知識人階級のほとんどは、むしろ積極的に政権体制側へのコンフォルミスム(順応主義)の徒と化してしまう(晩年の家康の参謀である本多正信は、一向一揆からの転向者である)。さらにいえば、本阿弥光悦以降の琳派から宮沢賢治に至るユートピア的な志向も、もしかしたら(時代は遡るが)天文法華の乱の鎮圧と何らかの系譜的な繋がりを指摘できるかもしれない。
こうした中世的空間が全面的に解体していく過程というのは、現代日本の知識人や芸術家に見られる倫理性の欠如の問題とも深く繋がっているのではないか。それは少なくともローマカトリックが厳然と存在する西欧とは異なっているはずである。
『砦なき者』という小説を書いて自殺した作家がいたけど、現代の「砦」なき知識人に対して彼らの倫理的矛盾(たとえば自身の論文では「マルチチュード」を称揚しておきながら、いざ実際にそうした有象無象どもを見ると体制側に密着して圧政的に振る舞うような)を衝くのは完全に正しいが、しかしどこか無益というか「糠に釘」である気もする。日本で知識人として生きるためには、コンフォルミストとして振る舞わなければならない場面が多々あるのかもしれない。いや、彼らはほんとうは知識人と呼ぶべきではなく、むしろ知識情報の管理取締(「スノビズム」)を旨とする官僚にすぎないのかもしれないが。

織豊政権にとって最大の敵対勢力だった大阪の石山本願寺は1580年に信長によって解体され、数年後には秀吉によって大阪城が建設される。本願寺は京都に移り、徳川政権の策謀によって分派しさらに弱体化していく。ここでアナロジーをつけ加えるならば、左翼を称するネグリを呼び損ねた挙げ句に、そのシンポジウムで発言した活動家を公然と排除した東大安田講堂は、さながら秀吉によって抵抗の拠点を政権の本拠地にされた現代の石山本願寺(大阪城)である(本願寺の分派闘争は中核vs革マルのようなものだろうか)。
とはいえ、上野某氏や姜某氏といった凡庸極まりない大学知識人(知識官僚)に「真田幸村のように清廉潔白に生きよ、ふたたび大阪城を炎と化せ」と要求するのは、どうも酷というものではないだろうか。たかだか官僚でしかない者に保身以外の「正義」とか「誠実さ」を要求するのは、もはや夢想に過ぎないとも考えられるからである。
あるいはむしろ、彼らは儀式を執り行う司祭のようなものたちでもあったのだろうか。司祭とは「知の技法」を司る官僚の意である。「スノビズム」の特質が「内容に対する形式の自立と過剰を示す」(パオロ・ヴィルノ)ことだとすれば、つまりネグリ抜きのネグリイベントとはまさに「スノビズム」そのものだった。だから「セレモニーの進行を乱すな」と、司祭とその参加者たちは激昂したのである。
そしてむろんこうした社会の「儀式」化とは、ファシズム以外の何者でもあるまい。

(後記:しかし最近はこんなふうに書くと、「コイツは東大に放火するつもりか」などと勝手に勘違いするお調子者が現れかねないので、これはかつてのブーレーズやフーコーの発言を踏まえたメタファーであると一応つけ加えておく。なお、ネグリ不在のシンポジウムについては、ウラゲツ☆ブログ「後日談:東大ネグリイベントへの様々な感想と異論」http://urag.exblog.jp/ を参照)