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2008年03月25日

●万田邦敏『接吻』

観に行ったのは平日の午前上映だというのに、ユーロスペースの客席は8割がた埋まっていた。タレントのファンでもなさそうだし、ちょっと驚き。

(以下ネタばれあり)

 不幸な犯罪的なカップルの道行き、というモチーフは昔からハリウッド映画の「おはこ」というやつで、たとえば『暗黒街の弾痕』とか『拳銃魔』とか『夜の人々』が有名だけど、主人公のカップルがどれほど犯罪的な行為に走ろうとカップルの「愛」だけは疑われることなく、だからこそそれらは「悲劇」の名に値するドラマとなりえたのだった。
 しかし「愛」さえも信じられなくなるのがゴダール『勝手にしやがれ』以降で、犯罪そのものよりむしろ男女のすれ違いと葛藤がドラマの主題となる。1959年以来、夢は二人で見るものではなく、目をつぶって一人で見るものとなったのである。『接吻』もおそらくこの系列の映画といえる。『接吻』のヒロイン(小池栄子)は最後に「ここは暗くならないから目をつぶって」という意味の台詞を男(豊川悦司)に言うが、これはダグラス・サーク=ゴダールからの引用=変奏になっている。
 『勝手にしやがれ』でベルモントがジーン・セバーグと再会するのは警官殺しの後だったが、『接吻』では小池が3人を惨殺した犯人の豊川と知り合うのは、すでに彼が逮捕され裁判が始まってからになる。だからこのカップルにはボーイ&キーチーふうの逃避行は最初からありえず、むしろ一切の証言を拒む豊川が判決(死刑)へと向かう「時間」そのものが二人の「愛」を育む排他的な「空間」と化す。二人が唯一会うことができるのは拘置所の面談室の透明なガラス越しでしかない。映画的に難しいこの設定は、しかし悪くはない。
 男が女の愛情(といえるのかわからないけど)を知るに従って、しかし互いのファンタスムは逆にすれ違っていく。小池の役柄はある意味で究極の「おっかけ」といもいえるが、ある種の不幸から感情の「転移」に陥っていくヒロインというのは、最近の邦画では『嫌われ松子の一生』の中谷美紀にもやや似ている。しかもヒロインたちのファンタスムをそのままで肯定しようという映画自体の幻想性までそっくりである。
 小池はもはやファンタスムの対象でなくなった豊川を、初めて直接の面会を許されたその場で刺し殺す。残念ながらあまりに非現実的な設定のため(少なくともボクにはヒロインのファンタスムに共感できなかった)、続く弁護士(仲村トオル)との「接吻」がほとんど冗談のようにしか見えない。万田邦敏はこの一連のシーンを(非現実性を糊塗するかのように)スローモーションのようなリズムで演出している。ゴダールより『俺たちに明日はない』である。ただしこの幻想が男性のものでない点が、なるほど女性によるシナリオなのだなとは感じられる。
 この2作に限らず『ゆれる』もそうだったのだが、近年のそれなりに優れた邦画でさえ、自らの抱え込むファンタスムの解体する強度にもはや(作り手自身が)耐えられなくなっているように思える。しかしそれは映画というよりも「慰安」に過ぎないものだ。だったらディズニー(『魔法にかけられて』)でも見ていた方が(気取っていないぶんだけ)正直なのではないだろうか。少なくとも蓮實御大の「ご推薦」でシネフィル連中を安心させるのは、もはや単なる知的頽廃にすぎないと思う。