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2008年03月20日

●都市の「ネオリベ」化と「ポストモダン」造景論

 最近、80年代に流行した都市論・風景論を読み直す必要があって、その1冊としてオギュスタン・ベルク『日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代』(篠田勝英訳、講談社現代新書)を読んだ。文末に「1989年8月」脱稿とある(平成元年!)から当然時代遅れになっている面は多いわけで、少なくとも今では「西欧対日本」という対立図式は恥ずかしくて呈示できないだろう。この種の文化的対抗論は、その背景に経済的実力を伴っていないと単に滑稽なだけである。セザンヌは山水画に似ているとか、ミースには日本建築の美学が見てとれるとか、著者はほとんどデマに近いことを滔々と述べるのだが、ただし注目したいのはそこではない。
 この頃の都市論が標的としていたのは、コルビュジエ等に代表される20世紀前半のモダニズム建築=都市計画である。これは「機能主義=近代科学技術の盲信」という偏見を伴ってしばしば俗耳に受けいれられやすい主張なのだが、驚くべきことにこの著者は「機能主義」が「都市に対して住居を自律的なものに」し、都市の風景の「破壊を目指した」と主張するのである。「目指した」って・・・モダニズムとはテロの一種なのか? こんなデタラメな本が2007年にもなお版を重ねていることには改めて驚かされるが、しかし読み進めていくうちに、これが著者の誤解とか悪意ある偏見という類ではなく、「西欧近代のパラダイム」を越えた「造景」という思想を導くために必要不可欠なデマゴギーであることが理解できる。
 「造景の時代の人間は自身の主観性と事物の現実との関係を意識的に調和させ、したがって環境に向けた自身の視点を客体化することで風景を管理できるようになる」と著者はいう。具体的には「環境をイメージに同一化する」こと、美的想像力に基づいて地域や歴史といったコンテキストをイメージ化するということである。要するに「フジヤマ・ゲイシャ最高!」をもっともらしく言い換えてるだけなのだが、しかしこの著者のトンデモっぷりを現在のわれわれははたして嘲笑できるのか? 90年代以降の「自然」や「伝統」に配慮した(とされる)都市の再開発は、現実には共同体のコンテクストに属しない存在(浮浪者や外国人)を「美観」の名のもとに排除する口実を得たのである。「自身の視点を客体化することで風景を管理」するのは「市民」ではなく自治体やゼネコンであり、それらが率先して(特に東京や大阪で)行っているネオリベ的なクリアランスは、そのイデオロギー的な根拠をポストモダン的な「美」に置いているのではないのか。
 じつのところ、こうした「造景法(シーノグラフィ)」擁護というポストモダン・イデオロギーは、たとえば一見浮世離れした大室幹雄『月瀬幻影』(2002年)のような、知的にははるかに洗練された著作にまで一貫しているのである。