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2008年03月09日

●アーカイヴ6「大きいお友だち」がアニメに群がる理由(わけ)

 一〇月から『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明監督の新作アニメが放映されている。タイトルは『彼氏彼女の事情』といい、同名の原作マンガが雑誌「ララ」に連載中である。ちなみにマンガを読んだ印象をいかにも内輪っぼく表現すれば、「ラブコメをベースにしたリリカルてんこ盛りな胸キュンコテコテ正統派少女マンガの王道」……というのはあまりにあんまりであるが、要するに、顔よし、頭よし、性格よしと三拍子そろった一見優等生、じつは単なる見栄っ張りでおっちょこちょいなヒロイン(このへんがラブコメ)が、自分に輪をかけて完壁に優等生な同級生に恋心を抱く(このへんが少女マンガの王道)、しかし優等生のはずの男の子もじつは「複雑な家庭の事情」ってやつを抱えている(このへんがリリカルてんこ盛り)……、と、うすら恥ずかしくも「正統派少女マンガ」の「お約束」を見事に踏まえた他愛のないお話である。しかしアニメではこの初々しいカップルに、作家・庵野秀明自身のやや偏った感受性と内面性がおもく、くらく投影されていて、どうもふつうの少女マンガを楽しむように無心ではいられない。今度の作品も『エヴァ』テイストな、アスカとシンジに演じさせたようなダークでハードな内面の葛藤劇を再現するのか? しかし「小さいお友だち」はともかく、「大きいお友だち」(私もその一味?)にしてみれば、あの庵野監督がいつラブコメの「お約束」を放棄して彼本来の資質を全開するのか、といったスリリングな予感には、これでなかなか子供番組らしからぬ嬉しさがある。
 この秋始まった新作TVアニメは一説では七〇数本にものぼるらしい。どの番組も高校生からもっと下の「小さいお友だち」向け番組である、というのはタテマエで、多くはLDその他関連グッズの購買層である「大きいお友だち」向けのマーケティングをきちんと抑えてある。それどころか番組の制作スタッフ自ら「一八禁パロディ本」(簡単にいうと、番組キャラクターを無断借用して作る、幼児虐待等のえげつない性描写をウリにした同人誌のこと)をコミック・マーケット、通称「コミケ」で販売していた、なんて事例も珍しくない。コミケとは、タテマエを介した隠微な性欲のおおっぴらな発露を擁護しつつ、ウタマロ、ホクサイといった江戸時代の消費文化の系譜に連なる「オタク・カルチャー」の中核をなす現代の祝祭なのである、とは、岡田斗司夫氏など「サブカル」系論者の口真似である。しかしこの主張は真実であるのか? 子供向けを称するアニメや特撮番組には、しばしば大人の側のイデオロギーが注入されているという認識はありふれている。よく知られた例では『ウルトラ』シリーズの何本かには、作品に参加した一人の若い沖縄出身の脚本家によって、当時の社会情勢を反映したある苦い寓意が込められていた。だがかつて作り手が沖縄という「反権力」のポジションを仮託しえた仮想空間は、三〇年という歳月を経て今や著作権法違反野放しのリゾート・ビーチ状態である。

 私は今夏『スレイヤーズごうじやす』というアニメ映画をロードショーで観に行った。しかし観客の一人として奇妙な困惑と居心地の悪さを感じたのは、何も子供たちに混じって私に似た成人男性が多数うろうろしていたからではない。このアニメの幼稚な外見は仮装されたものである。そしてこのキッチュな幼稚さがそのまま現在の私の等身大のリアリティであるとすれば、これはもう立派に大人向けの娯楽であるという気がしたのだ。
 『スレイヤーズごうじゃす』は、TVアニメ、コミック、小説等でメディアミックス展開されているシリーズの劇場版で、ドラゴンと魔法が闊歩するドタバタコメディタッチの勇士の放浪物語、もしくは股旅ふうで、水戸黄門ふうなファンタジー・ワールドを繰り広げている。主人公は魔道士リナ・インバースという、ドラグ・スレイブなる魔法攻撃を武器とする清楚な美少女である。股旅ものにつきものの相棒は白蛇のナーガといい、こっちは身体の凹凸を強調した、布地面積の限りなく希少なファッションがウリ。舞台となる西欧中世ふうの田舎町で、二人組はドラゴン族を従えたその土地の王女・マレーネに出会う。マレーネはドラゴン軍団と別荘に立てこもり、父親の領主カルバートと、戦争、というか親子喧嘩の真っ最中である。魔法の腕を見込まれたリナとナーガは欲に目が眩んで、それぞれが王女側と領主側に分かれて助っ人に雇われる。しかしその戦争の実態はというと、城の兵隊もドラゴンも役立たずだし、マレーネの振り回す巨大な剣は真っ赤なハリボテ、オマケにヤラセに近い戦争の原因がパパにお小遣いの値上げを断られた腹いせとあっちゃあ、ばかばかしくってやってらんねい、と、リナでなくとも思わず匙を投げたくなるというものである。ちなみに私の隣の小学生らしき二人連れはやけに冷ややかで、礼儀正しく椅子に腰かけたままクスリとも笑わないのだった。ケッ、またこんな子供だましかよ、と連中は考えていたにちがいないのだ。
 物語のクライマックスで、この紛争の影の仕掛け人というのが、領主の大臣であるソーンフォートという、いかにもな悪党面の中年男であることが明かされる。領主親子が和解すると、ソーンフォートは街を覆うほど巨大で邪悪なドラゴンに変身する。破壊される街を守ろうとするリナ、と、これだけならありふれた勧善懲悪のパターンだが、この映画にはさらにもう一回オチがあった。巨大なドラゴンの真の姿は、魔法で変身した躾のなっていない赤ん坊のドラゴンであった、という……。子供という「種族」、大人にとって根源的な他者である存在の他愛のなさこそが現代における悪であるというメッセージを観客は読みとることだろう。実際、子供はマスメディアや電子メディアという「魔法」を利用して社会を揺るがすような事件さえ巻き起こしているのだし、と。でも、子供自身が一方的に滅ぼされるべき「存在論的悪」として表象される児童向け作品っていったいなに? と、まあ、映画を観ながら私はずっとそんな疑問を感じていたのだった。
 しかし、それは私の誤解だったのである。こうした「一見」児童向けアニメが児童文化とは何のかかわりもなく、大人の鑑賞にも耐えうる、いやむしろ「大きいお友だち」=オタクをコアな観客層に設定した作品である理由は、「江戸の職人文化の正当な後継者」(岡田斗司夫)たりうるような、作品のある種の技術的達成と文化的洗練によって、ではない。そうではなくて、子供の世界(=ドラゴン)からも大人の世界(=戦争)からもはみ出した、シニカルなよそ者にすぎないリナの視線こそ、オタクの眼差しそのものなのである。この映画を細部まで解析すれば、自分と異なる領域に生きる者への差別的な感受性、メディアの力への妄信、暴力に対する想像力の欠如、そして根底にある他者への恐怖という、オタク的眼差しを形成する要素が見えてくるはずである。そのうえ罪深いことに(そうではないだろうか?)、製作者はコンシューマーのこうした精神的な弱さをはっきりと標的にしてマーケティングを展開しているのだ。
 娯楽は慰安ではなく、慰安婦をエンターテイナーと訳したりはしない。文化資本によるこうした大人の慰みものを、私は「魂のバーチャル援助交際」と呼びたい。このシニシズムは「オタク」という限定を超え、今の日本社会にとって他人事で済ますことができない問題のはずである。映画があからさまに暗喩する、ドラゴン=東洋、戦争=西欧、リナ=日本という図式は、「これが君たちの自画像なのだ」と、あたかも私たちに認知を迫っているかのようなのである。
(「情況」1998年12月号)

(現在の後記)
 当時フリーの編集者だったKさんに「「情況」(CULTURE and POLITICS欄)にオタクについて書きなさい」と指名されたのは、たぶん10年前の当時は編集部の周辺に(現在ならともかく)こうしたテーマについて書けるライターがいなかったのではなかろうか。なにしろボクはこの頃、まだほとんど無名(初単行本はこの2年後)の月野定規の同人誌を冬コミのブースで売ってはいたが、「情況」についてはほとんど何も知らなかったのだ。内容は現代日本の「シニシズム文化批判」といったものだが、当人の意気込みとしては密かに『ミニマ・モラリア』を気取ったつもりだったのである。いやはや・・・。とはいえ、何とも場違いな原稿である。この号の特集は「終わらぬ戦後-現代の争点」、南京大虐殺や従軍慰安婦、東京裁判等を取り上げているのである。