« アーカイヴ7『HANA-BI』が曝露してみせたもの | メイン | アーカイヴ9「琉球独立党資料集」書評 »

2008年03月14日

●アーカイヴ8『マレーナ ディレクターズ・エディション』解説

万華鏡(カレイドスコープ)の想像力

自転車と少年
 少年時代とはおそらく子供らしさと大人っぽさとを同時に身にまとう曖昧で中間的な季節の過ぎ行きのことなのだろう。過度の「男らしさ」に憧れ背伸びをしながら、同時にまだ幼年期の柔らかい肌を脱しきつていない受動的な繭の中で欲望を震わせている、それは極めて不安定な存在なのである。少年が最初に手にする自転車は、そうした「男らしさ」の象徴であるのと同時に、二つの時期に引き裂かれた不安定さの暗喩でもある。そして、レナートが父親に導かれて中古の自転車を手に入れるシーン(フレームがアフリカ製、ギアがドイツ製、チェーンがシチリア製と、当時のイタリアの勢力図を思わせる部品の数々)【チャプター2】から語りはじめるジュゼッペ・トルナトーレは、『マレーナ』という映画にういういしい少年の欲望を刻印しようとする。地中海の空の残酷なほどの晴れやかさが、少年のはかない出会いと別れの季節を祝福するかのように輝いている。

繊細さとアンバランス
 そのあまりに冷静で水際立った作品構築の手際ゆえに、トルナトーレの映像表現はかえって時にわざとらしく野暮ったいという批判を受けることもある(それは典型的な誤解である)。だが、「寓話を使ってもシチリア人は描けない」(『トルナトーレのシチリアで見た夢』)と主張するトルナトーレは、今回のディレクターズ・エディション(イタリア国内公開版)でそうした中間的な存在としての少年を繊細に描き出すことに成功している。
 ただしその繊細さとは、しばしば大人が少年に対して勝手に抱いている感傷的な思い入れ、という意味ではなく、少年という存在の不安定さ、アンバランスさをそれ自体として正確に映し出す映像のうちに存するのでなければならない。成熟した異性への少年らしい憧れの向こうに、時として見るに耐えない無残な性欲が露わになったとしても、いや、むしろそこにこそ少年という季節のはかなさがフイルムに焼き付けられるはずだ、と、トルナトーレはそう確信しているかのようである。

過去と現在
 季節と季節との狭間でほんの一瞬輝く同義的な存在という意味でなら、事実、たとえばあの『海の上のピアニスト』とは、港から港へ至る海の上の暮らしで一時旅人の耳を楽しませるだけの、記憶にすら留められることのない曖昧なキャラクターではなかったろうか。そして何より『ニュー・シネマ・パラダイス』の主題である「映画」そのものが、つらい現実と現実の隙間でほんの2時間ほどの生を享受する、はかない可燃性の夢ではなかったか。
 「私の作品でヒットしたものは過去が舞台だ。それで私は“郷愁の監督”と…。過去を覗いて昔のシチリアを懐かしむのではない。私自身が過去のシチリアに現在を解く鍵を探しているのだ」(『トルナトーレのシチリアで見た夢』)
 トルナトーレの過去への執着は、思い出を宝石箱に閉じ込めた宝石のように保存するものではない。むしろ現実と現実の狭間で引き裂かれるように生きた慎ましい悦びや痛みの追体験に向けられているのだ。
 『マレーナ』においてもまた、戦争勃発から終戦直後までの数年間という狭間の時期を生きる少年の子供っぽい夢想と大人の眼差しとの生々しい振幅は、デイレクターズ・エディションで追加された幾つかのカットとシーンに確認することができるだろう。

空想
 冒頭、少年たちの視線がマレーナの肢体に釘づけになる中で、レナートが思わず彼女の香りを吸い込むシーン【チャプター4】。(これはレナートが街中で犬のように鼻をクンクンさせてマレーナの存在を匂いで嗅ぎ分けてしまうという、いささかコミカルなエピソード【チャプター27】の伏線にもなっている)
  (道端でマレーナを待ち構える悪童たち-マレーナの正面バストショットーマレーナの足許-興奮する悪童たち-マレーナの通り過ぎるのを見送る悪童たち-レナートのバストショット-マレーナの口許から胸元-目をつぶり愚を吸い込むレナート-通り過ぎるマレーナ)
 夜更けになかなか寝つかれず窓辺に仔み空想のマレーナを思うシーン【チャプター7】。
  (マレーナの歩く姿(レナートの空想)-寝苦しいままに枕元の灯りをつけるレナート-マレーナの胸元-窓を開け夜の大気を呼吸するレナー卜-マレーナの太腿-窓辺に思い沈むレナート-マレーナのガーターベルト-通りの憲兵がレナー卜に消灯を命じる。レナート、窓を閉じる)
 いずれもデイレクターズ・エディションで新たに追加されたシーンであるが、レナートの幼い性の芽生えと苦しみに素直に共感できる美しい情景となっている。

共鳴(レゾナンス)
 夜、レナートははじめて部屋の抜け出してマレーナの部屋を覗く【チャプター11】。世界配給版でまるごとカットされていたこのシーンでは、マレーナはソファに横たわるしどけないスリップ姿で、暑さで寝苦しいのだろう、溜め息をつきコップの水を飲み干す。性的な予感に満ち満ちた、汗ばんだ肢体。夫の写真に想い沈む彼女の姿が、窓辺に佇むレナートの想いと重なり、互いのシーンとシーンとが音楽のように共鳴しあう。
 洗髪後のマレーナを覗き見るレナートの妄想【チャプター13】は、すでに大人の男のそれといってもいいかもしれない。椅子にしなだれかかったマレーナの全身-足許から胸、反り返った咽喉-水の滴る長い髪と舐めるように映し出すカメラはレナート自身の視線でもある。
 妄想の中で、レナートはマレーナの髪から滴る水を口に受けるが、現実のマレーナは遠く戦地からの夫の手紙を胸に抱き、想いを馳せる。

モンタージュ
 少年の眼差しが大人へと次第に変貌していくまでの、具体的で丹念な描写の積み重ね。ディレククーズ・エディションで付加された魅力の一端は、こうしたトルナトーレのモンタージュの手腕に見ることができるだろう。ミシンをかけるマレーナをレナートが覗き見るシーン【チャプター14】にあっても、世界配給版と異なる編集によってトルナトーレの意図をはっきりと感じ取れるものとなっている。
 タバコを吸い(性的な欲求不満を表現する古典的な小道具)ミシンをかけるスリップ姿のマレーナ-ミシンに飽きてレコードをかけて一人で踊りだす、というこのシーンでの基本的な流れは二つの版でほぼ同一であるものの、ディレククーズ・エディションではタバコを吸う口元よりもむしろ汗ばんだ胸元からあおるクローズアップで彼女を捉えることにより、レナートの視線の動きをより印象づける効果を生んでいる。
 さらに夫の写真を胸に抱いたまま寝室に上がるマレーナが下着を脱ぐまでをシルエットで捉えることで、マレーナ自身の満たされない欲望も鮮明に描き出されているのである。


 自転車を手に入れたレナートのペダルをこぐ脚と、ストッキングとハイヒールを履くマレーナの脚の平行モンタージュが、『マレーナ』のもう一つの重要なテーマを提示している【チャプター2】。
  (宣戦布告のラジオ放送に耳を傾ける市民たち-その中を自転車で駆け抜けるレナート-プラッシンクされる髪(マレーナ)-レナートの顔アップ-歓声を挙げる群集-街の様子-悪童たちにレンズで焦がされるアリ(イタリアの未来を暗示する)-悪童たち-自転車をこぐ脚(レナート)-爪先立って歩くマレーナの脚-自転車をこぐ脚-焼け死んだアリ-悪童たち-ストッキングをつける脚-自転車をこぐレナート-悪童たちとアリ-悪童たちに合流するレナート)
 少年たちのいかにも幼稚で不躾な視線は、マレーナの胸元やガーターベルトを付けた太腿に向けられ【チャプター3.4.5.18】、さらにレナートは彼女の裸の尻を妄想する【チャプター22.39】。
 だが彼らの興味とは別に、トルナトーレのカメラの欲望はつねにモニカ・ベルッチの脚に向けられるのかもしれない。(【チャプター38.44】にマレーナの歩行カットが追加されている)
 これは女を追う少年と少年に気づかない女【チャプター21.45】とが奏でる精妙な相同性でもあるのだが、実際、『マレーナ』という映画は、F・トリュフォーのようにヒロインをただ石畳を歩き続けさせることだけで魅惑的に撮ろうという、今ではいくらか古風な映画史的野心を隠そうともしないのである。
 そしてマレーナを尾行するレナートはといえば、彼が自転車をこぐ息遣い【チャプター18】もまた、大幅にカットの足されたディレクターズ・エディションではるかに生き生きとしたものになっている、というのは間違いのない印象だろう。
  (悪童たちと別れ、一人自転車をかっ飛ばすレナート-自転車で坂を下り-自動車が横切るのも何のその-狭い門を抜け-自転車を抱えて階段を駆け下り-走る子供たちを追い越し-道端の母子も無視して-レナー卜はマレーナの現れそうな街角へ急ぐ)

感情
 レナートがいったん諦めて道端の石段に腰かけたところに、突然出現する美しいマレーナの脚。街中の男どもはうつむき加減に歩くマレーナに好奇な眼差しを送り、女たちは悪罵を放つ。その脇を隠れるようにひっそりとマレーナの跡を追うレナート。何度も何度も擦れ違いながら、それでもレナートは決して彼女に声をかけることはできず、マレーナはただ歩き続けながら、怒りや悲しみを表に見せることはない【チャプター21】。
 「私の映圃の人物は感情を隠しはしない。慎み深さゆえに戸惑いを感じるのだ。……感情を表す困難は、感情を取り戻す困難だ」
 「『マレーナ』の場合も同じだ。40年代に13、14歳の少年が26、27歳の女性に恋をした。少年には手の届かない存在で、町中の欲望の的。少年はその情熱を彼女の尾行に費やす。思うのは彼女だけ。でも、それだけ」(『トルナトーレのシチリアで見た夢』)
 夫の戦死が伝えられた後のマレーナ、彼女の取り戻すことの困難な感情について【チャプター28】、庭の植木に消し炭を棄てた手が不意にアイロンを取り落とし、空を見上げ、また気がついたように喪服らしい洗濯物の乾き具合を確かめる(ディレクターズ・エディションで追加されたカット)という、取り戻した日常のささやかな行為にこそ、トルナトーレは深い嘆きを込めようとしているのだ、という点を見逃さないでおこう。そして、その悲嘆をレナートの下着泥棒というあまりに卑近で滑稽なエピソードにおいて実現してしまう、トルナトーレの映像表現の振幅の大きさについても。
 こうした悲痛さの中に卑近さを、卑近さの中に悲痛さを同居させるアイロニーは、マレーナの父の葬儀に参列した悪童たちが彼女の尻をじっと注視しているシーン【チャフター46】等で、またトルナトーレの他の作品にも多く散見される手法である。

性(エロス)
 いかにも『ニュー・シネマ・パラダイス』を撮った監督らしいというべきか、レナートもどうやら重症の映画中毒者らしく、自分をターザンやジョン・ウェインに擬えたいという狂おしい妄想癖を夜毎に発揮する【チャプター22.30.50】。それらは新たに追加された映画館でのジーナとの性的な交渉【チャプター26.41】や、父親が息子に娼婦をあてがうという、かなり非常識かつ不道徳なエピソード【チャプター53】とともに、なにやら身に覚えのなくもない男たちの微苦笑を誘い、生素面目な女たちをうんざりさせる部分ではあるかもしれない。
 ただしディレクターズ・エディションにおいて、マレーナが自宅で軍人相手の「商売」を始めた場面【チャプター48】で幾つかのカット(自分の裸体に香水代わりのレモン汁を振りかけ男を待つマレーナ、詳細なセックス描写)が迫力ロされたのは、レナートが彼女のすべてを見届けるという意味で、この物語の構成上不可欠な追加でもあって、単なる扇情的な思惑とは一線を画している。
 マレーナの裸体が若々しくまた美しいほどに、レナートの覚える心の痛みが見る者にはげしく増幅されるのである。

万華鏡(カレイドスコープ)
 また、こうした数々のエロチックな映像の中でもとりわけ注目すべきなのが、世界配給版にも共通する、マレーナがドイツの軍人相手に「商売」をしている妄想【チャプター51】の映像効果の巧緻な活用である。
 万華鏡めいたレンズに乱舞する裸のマレーナのイメージは、それだけなら単に自分の妄想にショックを受けて失神してしまうレナートの内面を表象するに過ぎない(世界配給版)のに対して、ディレクターズ・エディションでは大幅に追加された売春窟での夢幻的なシーン【チャプター53】と音楽的な共鳴を奏でる。
 しかもトルナトーレがアイロニカルなのは、夜の女たちの地獄と、シチリア解放直後にマレーナが一般の女性たちから集団リンチを受けるもう一つの地獄【チャプター56】に、シーンとしての類似性を張り巡らせたことにほかならない。
  (【チャプター53】レナートをからかう娼婦の群れを捉えるメリーコーランドのようにたゆたい、回転するカメラ。胸をはだけ、舌を出して迫り、レナートを嬲り続ける猥雑な夜の蝶たち。日本公開版と比較してデイレククーズ・エディションではさらに30近いカットが追加された。一方マレーナのリンチの場面【チャフクー56】では、彼女が女たちに広場へ引き摺り出され、靴で叩かれ、蹴られ、服を毟り取られ、箒で殴られ、血塗れになりながらなおも許されずに髪を刈られるに至るまでの、約40の追加カットが情景の凄惨さをより強調している)

ナレーション
 映画の中で終始一貫して「歩く女」であったマレーナは汽車に乗って逃れるようにシチリアを去り、レナートにとって「少年期」というはかない一つの時代が終わる【チャプター57】。少年はアリタ・ヴァリのレコードを海に棄て、やがてタバコを覚え、誇らしげにガールフレンドの腕をとり街角を閥歩するようになる。街の人々は以前と同じように物見高く、そんな中に亡霊のように舞い戻ってきたマレーナの夫は、やがてマレーナ
と再会を果たし、再び夫婦として生活を共にするようになる【チャフター59】。かつては人目を惹いた容姿も衰え、平凡な年増女となったマレーナに、ようやく日常のなだらかな暮らしが戻ってくる。たった一度、買い物袋から落とした果物を拾うというなにげない触れ合いが、少年と女の最初で最後の出会いと別れとなるだろう。
 「逃げるようにペダルをこぎ続けた 去りゆく後ろ姿に 少年時代との決別を込めて 切ない思い出さえすべて振り払うかのように」
 映画の冒頭とラストシーンのナレーションが年老いた男(成長したレナート)から、ディレクターズ・エディションにおいて少年の声に変更されたのは、「少年時代」というこの残酷で両義的な短い季節の終わりを、回想形としての過去でなく、「現在」として追体験したいというトルナトーレ自身の欲望をなによりも直裁に表現しているように思える。
(DVD『マレーナ ディレクターズ・エディション』 リーフレット 2002年発売)

(現在の後記)
これは評論というより、劇場公開版との差異を映像分析せよ、という注文でかいたもの。特に書き加えることはないが、「作家主義」がすでに過去の物となっている(トリュフォーへの言及の無効性)という認識はほの見えるかもしれない(デザイナーには「おたくっぽい」といわれたが・・・)。2つの版をビデオデッキを並べて15時間以上見比べた苦労はけっこう記憶に残っている。