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2008年03月05日

●アーカイヴ5『書かれた顔』

ダニエル・シュミット監督 1時間29分 3月上旬からシネ・ヴィヴァン・六本木で公開予定

 もし映画というものを、大量の観客動員を狙った映画と、映画祭向けの映画に分類できるとすれば、「キッチュ」「頑廃」「世紀末」といった語彙で語られることの多いシュミット作品は、間違いなく後者に属する。もちろんそれは芸術性や娯楽性の多寡とは何の関わりもないが、坂東玉三郎の舞台とインタヴューを軸に、成瀬巳喜男の映画『晩菊』の断片、劇中劇「黄昏芸者情話」、武原はん、大野一雄、杉村春子などの舞踏家、女優のインタヴュー、踊りなどで構成された『書かれた顔』は、ドキュメンタリーともフィクションともいえぬ曖昧な形式を持ち、その意味でシュミット監督自身のかつての傑作『トスカの接吻』を思い起こさせる。というかこの作品は、彼の映画に親しんだ人ならば既視感に襲われるような、なるほど独特の魅惑的な細部に満ち溢れてはいるのだ。迷宮的な舞台の奈落に、『カンヌ映画通り』のビュル・オジェそっくりに歩く玉三郎に、『ラ・パロマ』で見た控室の鏡台に、『今宵かぎりは…』を思わせる劇中劇に、仰け反るように倒れるヒロインに、窓から眺める夕陽に、武原はんに緩やかにに寄る名手レナート・ベルタのキャメラに、とりわけシュミット的“通俗性”の白眉といえる夕闇の埠頭で大野一雄が踊るシーンに、私たちはいつもながらうっとりさせられる。
 だが、この作品には何かが決定的に欠けているのだと思う。たとえば『トスカの接吻』の緩慢な時間の流れを裏打ちしていたのが、イタリア・オペラの大家ヴェルディの著作権保護期間の消滅という物理的な事態であるような。シュミット映画の〝世紀末的頽廃趣味″がリアルだとすれば、〝ヨーロッパ″が日々文字どおり摩滅していくのを、〝生″そのもののように私たちが触感できるからなのであり、でなければ〝世紀末的頽廃″など、日本のテレビCMと選ぶところはないのだ。
 ようするに『書かれた顔』という作品は、監督自身の敬愛するナルセの映画より、はるかにCMに似ている。「黄昏芸者情話」はあまりにエキゾチシズムがナマ過ぎ、二人の俳優の顔があまりに映画的な洗練を欠いている。玉三郎の舞台をもう一人の玉三郎が見るという仕掛けは、歌舞伎をシュミット的に異化する機能を充分に果たしているだろうか。プロダクション・ノートにいう「日本の記録でもヨーロッパの記録でもない、一種夢幻的な世界像」とは他でもないシュミット的世界の謂だが、ここでは単に日本でもヨーロッパでも流通する世界像に堕ちてしまっているように思われる。
(「ミュージック・マガジン」1996年3月号)

(現在の手記)
こうして並べてみると、マイナーな邦画のみならずシュミットのような巨匠にまで相手構わず噛みつく、10年前のワタクシはまるでたちの悪いチンピラか野良犬のようである。そういや他にも、アンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』の悪口も書いてたなぁ・・・。
まあ、いわゆる「作家主義」ってやつに恩義はないし、(誰とは言わないが)蓮實重彦氏の圧倒的な影響下にあるやあれやこれやの映画評論にもほとんど関心はなかった。そもそも「彼ら」の「映画愛」に溢れた批評ってやつは、あれは批評というより映画への「想像的」な表象で、端的に「イデオロギー」というのである。むろんあの聡明極まりない蓮實自身は、その陥穽に気づいていたからこそ「映画に愛される」なんてムリ筋の逆説を吐いたのだろうが、しかしそれもまたイデオロギー的な再認の内部に止まっている。
 ゲイリー・グレイ『friday』(河地依子氏)、スパイク・リー『クロッカーズ』(樋口泰人氏)、小池征人『もうひとつの人生』(野崎六助氏)のレビューと並んで掲載。