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2008年03月25日

●万田邦敏『接吻』

観に行ったのは平日の午前上映だというのに、ユーロスペースの客席は8割がた埋まっていた。タレントのファンでもなさそうだし、ちょっと驚き。

(以下ネタばれあり)

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2008年03月20日

●都市の「ネオリベ」化と「ポストモダン」造景論

 最近、80年代に流行した都市論・風景論を読み直す必要があって、その1冊としてオギュスタン・ベルク『日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代』(篠田勝英訳、講談社現代新書)を読んだ。文末に「1989年8月」脱稿とある(平成元年!)から当然時代遅れになっている面は多いわけで、少なくとも今では「西欧対日本」という対立図式は恥ずかしくて呈示できないだろう。この種の文化的対抗論は、その背景に経済的実力を伴っていないと単に滑稽なだけである。セザンヌは山水画に似ているとか、ミースには日本建築の美学が見てとれるとか、著者はほとんどデマに近いことを滔々と述べるのだが、ただし注目したいのはそこではない。
 この頃の都市論が標的としていたのは、コルビュジエ等に代表される20世紀前半のモダニズム建築=都市計画である。これは「機能主義=近代科学技術の盲信」という偏見を伴ってしばしば俗耳に受けいれられやすい主張なのだが、驚くべきことにこの著者は「機能主義」が「都市に対して住居を自律的なものに」し、都市の風景の「破壊を目指した」と主張するのである。「目指した」って・・・モダニズムとはテロの一種なのか? こんなデタラメな本が2007年にもなお版を重ねていることには改めて驚かされるが、しかし読み進めていくうちに、これが著者の誤解とか悪意ある偏見という類ではなく、「西欧近代のパラダイム」を越えた「造景」という思想を導くために必要不可欠なデマゴギーであることが理解できる。
 「造景の時代の人間は自身の主観性と事物の現実との関係を意識的に調和させ、したがって環境に向けた自身の視点を客体化することで風景を管理できるようになる」と著者はいう。具体的には「環境をイメージに同一化する」こと、美的想像力に基づいて地域や歴史といったコンテキストをイメージ化するということである。要するに「フジヤマ・ゲイシャ最高!」をもっともらしく言い換えてるだけなのだが、しかしこの著者のトンデモっぷりを現在のわれわれははたして嘲笑できるのか? 90年代以降の「自然」や「伝統」に配慮した(とされる)都市の再開発は、現実には共同体のコンテクストに属しない存在(浮浪者や外国人)を「美観」の名のもとに排除する口実を得たのである。「自身の視点を客体化することで風景を管理」するのは「市民」ではなく自治体やゼネコンであり、それらが率先して(特に東京や大阪で)行っているネオリベ的なクリアランスは、そのイデオロギー的な根拠をポストモダン的な「美」に置いているのではないのか。
 じつのところ、こうした「造景法(シーノグラフィ)」擁護というポストモダン・イデオロギーは、たとえば一見浮世離れした大室幹雄『月瀬幻影』(2002年)のような、知的にははるかに洗練された著作にまで一貫しているのである。

2008年03月16日

●アーカイヴ9「琉球独立党資料集」書評

「沖縄」という問題とは何か。それは誰によって、誰に対して、どこに定位されるのか。この一見自明な前提を前にして、沖縄をめぐる問いのすべては苛立ちと共に立ち止まっている。
 大多数の「日本人」にとって、沖縄はすでにマイノリティですらない、という断定はむろんあまりに不当である。だが、1972年5月15日の沖縄「返還」以来、75年沖縄海洋博、87年海邦国体、2000年沖縄サミット開催という段階的な政治馴化は、ひたすら「沖縄」という問題の相対化と抹消を目指してきたのであり、その結果としての現在がある。今や沖縄県における米軍基地問題、沖縄県における歴史問題、沖縄県における環境問題は存在しても、それ以外ではないのだ。
「沖縄」という問いを発するのは誰か。もちろん「沖縄人」自身である、という定義もまたかならずしも自明ではない。それは沖縄県民もしくは出身者を指すのか、奄美諸島を含む南西諸島全域の住民という意味か、あるいは「琉球民族」と呼称されるべきか、そこに「本土」からの移住者は含まれうるのか、等々…。「沖縄」という固有性は、日本人のみならず沖縄人を自認する人びとに対しても、価値転換としての「政治」的な反問を強いるはずである。
 したがって「琉球独立」という問いは、幾重にも錯綜した課題と宛先とをあらかじめ抱えこまざるをえないのだ。60年代後半、沖縄は「復帰」をめぐる諸々の闘争で沸き立っていた。70年夏に発足したという琉球独立党の活動もそのひとつであり、本書に収められた党文書はすべてこの時期に集中している。植民地的な状況が強いる諸勢力の圧迫の只中にあって、初代党首・野底土南によるどのテキストにも、この問いかけの切っ先を、誰よりもまず自らに突きつけなければならないという怨嗟と痛みとがあきらかに見てとれる。「一六〇九年以来の外国武力支配と両属政治によって馴致されたところの精神病、他力本願、怯懦、退廃、奴隷根性、劣等感、迎合、諦観、自暴自棄、裏切り、買弁、二枚舌、たいこもち、厚顔無恥、無知無能など。/これら諸悪のカタマリ」(「被抑圧民族としての自覚を」)。しかしこの苛烈なまでの自虐は、植民地主義的な世界秩序に闘いを挑んだ「第三世界」の、たとえばエメ・セゼールのような詩人=政治家にも共有される、避けることのできない病理でもある。「われわれの下劣さと放棄から発芽した、夜の畸形の球」(「帰郷ノート」)。
 当時からすでに30年余を経て、現在、沖縄を取り巻く情勢が一変してしまったのはたしかである。グローバル化した「ネオリベ」的潮流に漂流する「国民国家」は(アメリカ合衆国という唯一の巨大な例外を除いて)もはや至高の価値ではなくなっている。平和を享受する地域では「敵対性」に基づく政治が時代錯誤な観念として廃棄されかねない一方で、剥き出しの権力が憎悪をぶつけ合うアリーナでは死者の頭数で和平が取り引きされる。だが、そこで真に問い直されるべき「政治」とは、世界を分割しているこの絶対的な差異にあるはずである。「琉球独立」が投じる剣は、「沖縄」という問いの輪郭を素描しながら、同時に、世界を配分する政治そのものへの抵抗の試みにほかならないのだ。
(「週刊読書人」2006年10月20日号)

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2008年03月14日

●アーカイヴ8『マレーナ ディレクターズ・エディション』解説

万華鏡(カレイドスコープ)の想像力

自転車と少年
 少年時代とはおそらく子供らしさと大人っぽさとを同時に身にまとう曖昧で中間的な季節の過ぎ行きのことなのだろう。過度の「男らしさ」に憧れ背伸びをしながら、同時にまだ幼年期の柔らかい肌を脱しきつていない受動的な繭の中で欲望を震わせている、それは極めて不安定な存在なのである。少年が最初に手にする自転車は、そうした「男らしさ」の象徴であるのと同時に、二つの時期に引き裂かれた不安定さの暗喩でもある。そして、レナートが父親に導かれて中古の自転車を手に入れるシーン(フレームがアフリカ製、ギアがドイツ製、チェーンがシチリア製と、当時のイタリアの勢力図を思わせる部品の数々)【チャプター2】から語りはじめるジュゼッペ・トルナトーレは、『マレーナ』という映画にういういしい少年の欲望を刻印しようとする。地中海の空の残酷なほどの晴れやかさが、少年のはかない出会いと別れの季節を祝福するかのように輝いている。

繊細さとアンバランス
 そのあまりに冷静で水際立った作品構築の手際ゆえに、トルナトーレの映像表現はかえって時にわざとらしく野暮ったいという批判を受けることもある(それは典型的な誤解である)。だが、「寓話を使ってもシチリア人は描けない」(『トルナトーレのシチリアで見た夢』)と主張するトルナトーレは、今回のディレクターズ・エディション(イタリア国内公開版)でそうした中間的な存在としての少年を繊細に描き出すことに成功している。
 ただしその繊細さとは、しばしば大人が少年に対して勝手に抱いている感傷的な思い入れ、という意味ではなく、少年という存在の不安定さ、アンバランスさをそれ自体として正確に映し出す映像のうちに存するのでなければならない。成熟した異性への少年らしい憧れの向こうに、時として見るに耐えない無残な性欲が露わになったとしても、いや、むしろそこにこそ少年という季節のはかなさがフイルムに焼き付けられるはずだ、と、トルナトーレはそう確信しているかのようである。

過去と現在
 季節と季節との狭間でほんの一瞬輝く同義的な存在という意味でなら、事実、たとえばあの『海の上のピアニスト』とは、港から港へ至る海の上の暮らしで一時旅人の耳を楽しませるだけの、記憶にすら留められることのない曖昧なキャラクターではなかったろうか。そして何より『ニュー・シネマ・パラダイス』の主題である「映画」そのものが、つらい現実と現実の隙間でほんの2時間ほどの生を享受する、はかない可燃性の夢ではなかったか。
 「私の作品でヒットしたものは過去が舞台だ。それで私は“郷愁の監督”と…。過去を覗いて昔のシチリアを懐かしむのではない。私自身が過去のシチリアに現在を解く鍵を探しているのだ」(『トルナトーレのシチリアで見た夢』)
 トルナトーレの過去への執着は、思い出を宝石箱に閉じ込めた宝石のように保存するものではない。むしろ現実と現実の狭間で引き裂かれるように生きた慎ましい悦びや痛みの追体験に向けられているのだ。
 『マレーナ』においてもまた、戦争勃発から終戦直後までの数年間という狭間の時期を生きる少年の子供っぽい夢想と大人の眼差しとの生々しい振幅は、デイレクターズ・エディションで追加された幾つかのカットとシーンに確認することができるだろう。

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2008年03月12日

●アーカイヴ7『HANA-BI』が曝露してみせたもの

 北野武脚本・監督・主演作品である『HANA-BI』に対する一般の評価をいまさら述べるまでもないだろうが、昨年のヴェネチア映画祭でグランプリを受賞し、パリの『カイエ・デュ・シネマ』といった専門誌の評価も高く、同時に北野としては各国で例外的な観客動員数を達成したという、最近の邦画の中では稀有な作品だった。だが、さまざまな場で論じ尽くされた感のあるこの映画をここであらためて取り上げてみたいと思うのは、作品自身があらかじめそうした批評のあり様を体現していた点に、批評があまりに鈍感だったのではないかという疑問に発している。端的にいって『HANA-BI』が暴露してみせたのは、批評の、何かを否定し、何かを肯定するという相対的な機能がすでに内実を失っているという事実である。
 たとえば、こんなシーンを思い出してみる。
 回復の見込みがない病の妻・美幸(岸本加世子)が湖畔で一心に枯れた草花に水を注している。その側で暇をつぶしていたサラリーマンが見ず知らずの彼女に、「死んだ花に水をやってもしょうがないんだよ! おまえ、頭おかしいんじやないの?」となぜか苛立つように言いつのり、だが次の瞬間、元刑事である夫の西(ビートたけし)は彼を湖へ殴り倒す。やがてこの哀れな通行人はパンツと革靴をのみといういでたちで寒空の下で自分の衣服を乾かすことになるのだが、ややコミカルに演出された一連のシークエンスについて、「美幸は夫が見ず知らずの他人に暴力をふるうのを見過ごしたのだろうか?」という素朴な疑問が観客の脳裏をよぎることは、ここで西の傍らにいたはずの美幸のショットが省略されていることからも妥当と思える。つねに「見つめる女」をヒロインに据えてきた北野の映画にとって、これは例外的な事態なのだし、むしろありふれた、物語の必然とさえいえる。この時点で西の暴力を妻の視線に晒すことは、ストーリーの展開上あってはならないのだ。というのも、これは、入院費の嵩む妻のためにやくざから多額の借金をし、返済のために銀行強盗を犯すに至った西夫婦の逃亡中に起きた小さな挿話のひとつなのだが、美幸が西の犯行を察知しているのか否かが判然としない(させない)ところに、美幸の無垢な聖性を感受させる仕掛けになっているからである。

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2008年03月09日

●アーカイヴ6「大きいお友だち」がアニメに群がる理由(わけ)

 一〇月から『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明監督の新作アニメが放映されている。タイトルは『彼氏彼女の事情』といい、同名の原作マンガが雑誌「ララ」に連載中である。ちなみにマンガを読んだ印象をいかにも内輪っぼく表現すれば、「ラブコメをベースにしたリリカルてんこ盛りな胸キュンコテコテ正統派少女マンガの王道」……というのはあまりにあんまりであるが、要するに、顔よし、頭よし、性格よしと三拍子そろった一見優等生、じつは単なる見栄っ張りでおっちょこちょいなヒロイン(このへんがラブコメ)が、自分に輪をかけて完壁に優等生な同級生に恋心を抱く(このへんが少女マンガの王道)、しかし優等生のはずの男の子もじつは「複雑な家庭の事情」ってやつを抱えている(このへんがリリカルてんこ盛り)……、と、うすら恥ずかしくも「正統派少女マンガ」の「お約束」を見事に踏まえた他愛のないお話である。しかしアニメではこの初々しいカップルに、作家・庵野秀明自身のやや偏った感受性と内面性がおもく、くらく投影されていて、どうもふつうの少女マンガを楽しむように無心ではいられない。今度の作品も『エヴァ』テイストな、アスカとシンジに演じさせたようなダークでハードな内面の葛藤劇を再現するのか? しかし「小さいお友だち」はともかく、「大きいお友だち」(私もその一味?)にしてみれば、あの庵野監督がいつラブコメの「お約束」を放棄して彼本来の資質を全開するのか、といったスリリングな予感には、これでなかなか子供番組らしからぬ嬉しさがある。
 この秋始まった新作TVアニメは一説では七〇数本にものぼるらしい。どの番組も高校生からもっと下の「小さいお友だち」向け番組である、というのはタテマエで、多くはLDその他関連グッズの購買層である「大きいお友だち」向けのマーケティングをきちんと抑えてある。それどころか番組の制作スタッフ自ら「一八禁パロディ本」(簡単にいうと、番組キャラクターを無断借用して作る、幼児虐待等のえげつない性描写をウリにした同人誌のこと)をコミック・マーケット、通称「コミケ」で販売していた、なんて事例も珍しくない。コミケとは、タテマエを介した隠微な性欲のおおっぴらな発露を擁護しつつ、ウタマロ、ホクサイといった江戸時代の消費文化の系譜に連なる「オタク・カルチャー」の中核をなす現代の祝祭なのである、とは、岡田斗司夫氏など「サブカル」系論者の口真似である。しかしこの主張は真実であるのか? 子供向けを称するアニメや特撮番組には、しばしば大人の側のイデオロギーが注入されているという認識はありふれている。よく知られた例では『ウルトラ』シリーズの何本かには、作品に参加した一人の若い沖縄出身の脚本家によって、当時の社会情勢を反映したある苦い寓意が込められていた。だがかつて作り手が沖縄という「反権力」のポジションを仮託しえた仮想空間は、三〇年という歳月を経て今や著作権法違反野放しのリゾート・ビーチ状態である。

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2008年03月05日

●アーカイヴ5『書かれた顔』

ダニエル・シュミット監督 1時間29分 3月上旬からシネ・ヴィヴァン・六本木で公開予定

 もし映画というものを、大量の観客動員を狙った映画と、映画祭向けの映画に分類できるとすれば、「キッチュ」「頑廃」「世紀末」といった語彙で語られることの多いシュミット作品は、間違いなく後者に属する。もちろんそれは芸術性や娯楽性の多寡とは何の関わりもないが、坂東玉三郎の舞台とインタヴューを軸に、成瀬巳喜男の映画『晩菊』の断片、劇中劇「黄昏芸者情話」、武原はん、大野一雄、杉村春子などの舞踏家、女優のインタヴュー、踊りなどで構成された『書かれた顔』は、ドキュメンタリーともフィクションともいえぬ曖昧な形式を持ち、その意味でシュミット監督自身のかつての傑作『トスカの接吻』を思い起こさせる。というかこの作品は、彼の映画に親しんだ人ならば既視感に襲われるような、なるほど独特の魅惑的な細部に満ち溢れてはいるのだ。迷宮的な舞台の奈落に、『カンヌ映画通り』のビュル・オジェそっくりに歩く玉三郎に、『ラ・パロマ』で見た控室の鏡台に、『今宵かぎりは…』を思わせる劇中劇に、仰け反るように倒れるヒロインに、窓から眺める夕陽に、武原はんに緩やかにに寄る名手レナート・ベルタのキャメラに、とりわけシュミット的“通俗性”の白眉といえる夕闇の埠頭で大野一雄が踊るシーンに、私たちはいつもながらうっとりさせられる。
 だが、この作品には何かが決定的に欠けているのだと思う。たとえば『トスカの接吻』の緩慢な時間の流れを裏打ちしていたのが、イタリア・オペラの大家ヴェルディの著作権保護期間の消滅という物理的な事態であるような。シュミット映画の〝世紀末的頽廃趣味″がリアルだとすれば、〝ヨーロッパ″が日々文字どおり摩滅していくのを、〝生″そのもののように私たちが触感できるからなのであり、でなければ〝世紀末的頽廃″など、日本のテレビCMと選ぶところはないのだ。
 ようするに『書かれた顔』という作品は、監督自身の敬愛するナルセの映画より、はるかにCMに似ている。「黄昏芸者情話」はあまりにエキゾチシズムがナマ過ぎ、二人の俳優の顔があまりに映画的な洗練を欠いている。玉三郎の舞台をもう一人の玉三郎が見るという仕掛けは、歌舞伎をシュミット的に異化する機能を充分に果たしているだろうか。プロダクション・ノートにいう「日本の記録でもヨーロッパの記録でもない、一種夢幻的な世界像」とは他でもないシュミット的世界の謂だが、ここでは単に日本でもヨーロッパでも流通する世界像に堕ちてしまっているように思われる。
(「ミュージック・マガジン」1996年3月号)

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●だめだw

マクロスのTVシリーズのDVDボックスを買って一通り見直しましたが…
リン・ミンメイの事を想うと好き過ぎて夜も眠れん!
けしからん!

おわり

2008年03月03日

●アーカイヴ4『弾丸ランナー』

サブ監督 1時間22分 テアトル新宿でレイトショー公開中

 『弾丸ランナー』で3人のキレた主人公がひたすら都会の喧噪の中を走り続けるのを見ながら、昔ルイス・プニュエルという人が撮った『ブルジョアジーの密かな愉しみ』という映画で、登場人物たちがひたすら意味もなくフランスの田舎道を歩き続けていたのを思い出した。『ブルジョアジー…』では、フランスのブルジョア階級の男女の友人が食事をしようとするのだが、レストランの主人が急死する、仲間の一人が警察に捕まるといった事件事故が常に起こって永遠に食事にはありつけず、男が警察に抵抗して射殺される、と思ったらそれはその男の夢で、さらにいろいろあっていよいよ食事を始めようとすると、幕がいきなり開いて、そこが舞台上のセットだとわかって、と思ったらそれがまた別の仲間の夢で、さらに目覚めるとそれがまたさらに別の仲間の夢で、…といった調子のタチの悪い冗談が延々2時間も続く、それはそれは人を食ったお話なのだった。
 『弾丸ランナー』で走り続ける3人は、レストランらしき厨房の下働きのおじさん(田口トモロヲ)とコンビニのアルバイター(DIAMOND★YUKAI)とチンピラ(堤真一)だから、こちらは日本の極貧労働者階級のカリカチュアとでも言ったらいいか。アルバイターは勿論ミュージシャン志望のシャブ中だし、チンピラは組長が目の前で殺られても何もできない意気地なしで、下働きは職場仲間にイジメられ、恋人にふられた腹いせを銀行強盗で晴らすつもりがドジってしまう。彼らを取り巻くヤクザと警察がさらに輪をかけて妄想的な連中で、その間抜けな様子が大袈裟な演出で語られる。殺すつもりが殺せない、追いかけても掴まらない、だからこんなヤツらにできるのは走りながら妄想にのめり込むだけと言わんばかりの皮肉な語り口なのだが、それが通りすがりの若い女を犯すという程度では、観客は自分たちの社会の想像力の貧困さに暗澹としない訳にはいかない。
 不愉快なのはラスト30分だった。どうせなら最後まで元気よく走ってりゃいいのに、3人は夜になると足を止める。おまけにけっこう仲良しになっている。叙情的なBGMにのせて慰安的な幻想(自分をふった恋人が優しく振り返ってくれたりする)に没入する3人。この無神経で甘ったれた感傷が倫理的に許せないのは、彼らの流れ弾で死んだ通行人の(妄想ではない)具体的なショットが映画の中にあるからである。事件に無関係な人間の死が許せないなどと道徳家ぶって言うのではない。映像と映像とが関連する意味に鈍感なのが、映画作家として犯罪的だというのだ。しかもその甘ったれた感傷がけっこう日本人になら受けるだろう、という商売人としての計算高さが二重に不愉快なのである。
(「ミュージック・マガジン」1996年12月号)

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